[ Writings Index ]

fiction
黒い傘


1


 恭一は傘を持っていなかった。
 二月。暖かい一日になるでしょう、という天気予報は見事にはずれ、凍える ような寒さになり、今日いっぱい晴天が続くでしょう、という予報もこれまた はずれ、あれよあれよと言う間に空を覆い尽くした雨雲から、勢いよく雨粒が 落下し始めた。それが午後三時、いまから二時間前のことだった。
「どうしよっかなー....」
 暖房のきいた部屋から寒々とした外の風景を見ながら、恭一は誰に言うとも なく呟いた。返事があるわけはない。この日曜日の建築事務所には、今恭一し かいないのだから。
 恭一だって好きでここに来たわけではない。と言っても、ここに来る必要が あったわけでもなかった。仕事はこのところめずらしく順調に進んでいて、休 日にまでこの小さな事務所にやってきてやるべき事はない。
 恭一がここにいるのは、必要だったからではなく、そうせざるを得なかった からだった。
 大粒の雨が降りしきる眼下の通りを、やけに寒そうに着込んだ男が通り過ぎ るのを見ていた恭一は、無意識のうちに立ち上がり、もう一杯コーヒーを飲も うと支度を始めた。もう少しすれば少しは雨がおさまるかもしれない。刺すよ うに冷たい雨に体を打たれながら走る自分の姿を想像して、恭一はそんな少な い可能性を信じようとしていた。

*   *

「結局ね、あなたは自分のことしか考えていないんだわ!」
 沙智子はそういって、一番大きなクッションを恭一に投げつけた。少し遠す ぎたのか、クッションは恭一の足下に落ちる。
「仕事が忙しかったときは仕方ないと思ったわ。神経を使う仕事だものね。で もあなたは仕事が少し楽になったって、私の話に全然耳を貸してくれようとも しない!」
「君の仕事の話か?」
 沙智子が次のクッションを掴みかけたのを見て、恭一はそう言った。物を投 げ始めた沙智子は早めに落ちつかせないと、このマンションの一室に甚大な被 害がでる。
「分かった、今聞く。とりあえず座れよ。」
「今更遅いわよ!」
 予想に反した沙智子の金切り声に、恭一は次の言葉をすぐには言い出せなかっ た。
「どういうことだ?」
「もう遅いの!春公演の主役、佳野子に持って行かれちゃったのよ!」
 緩くパーマのかかった髪の毛の間からのぞく目が、きっと恭一を睨んだ。
「春公演は大阪なの。評判が良ければロングランになる。ひょっとしたら、一 年、いえ二年ぐらいは東京に戻ってこれないかもしれない。私は主役が欲しかっ た。でもね」
 そこで沙智子は鼻をすすると、視線を床の上に落とした。
「でもあなたと離れて二年なんて長すぎる。だから相談に乗って欲しかった。」
 しばらく言葉を整理してから、恭一は沙智子に聞いた。
「でも、オーディションで決まったことなんだろ。」
 言ってしまってから、恭一はしまった、と思った。選んだつもりの言葉だっ たが、適切ではない事に気がついた。
 だが沙智子は、恭一の言葉を責めることなく、力のない声で言った。
「オーディションは、私と佳野子の実力では決着がつかなかったの。大阪の本 役は一人だけ。実力が同じなら、当然都合のいい方を選ぶでしょ、劇団は。」
 力無く沙智子はソファーに腰を下ろす。頭を抱えたまま、溜息とともに言葉 を発した。
「あなた、一昨日私が相談しようとしたとき、自分がなんて言って断ったか、 それすら覚えてないでしょう。」
 恭一は何とも言えなかった。沙智子の言っていることは真実だった。
 何の反応もない夫に、やっぱりね、と呟くと、沙智子は小さく笑った。
「今犯人が分かるところなんだ、じゃましないでくれ、よ。笑っちゃうわね、 私にとっては大事件でも、あなたにとっては架空の殺人事件ほどの価値もない んですものね。」

*   *

 沙智子はそれから、何も言おうとはしなかった。頭を抱えて、身じろぎもし なかった。恭一はそんな彼女を、しばらく何を考えるでもなく見ていたが、時 計が一時を知らせるとふいと向きを変えて歩き出し、外へと家のドアを押した のだった。
 それから近くのファミリーレストランで食事をした。大分腹が減っていたの で、いつもよりも多めの食事をオーダーしたが、どの皿もなにかかんかを残す 結果になってしまった。三杯目のコーヒーを飲み終えてから、混み始めたレス トランを後にする。あやしげな空模様を見て、結局恭一は仕事場へと足を向け るしかなかったのだった。
 休日の事務所へ来たのはもちろんはじめてではなかった。だが、そんな日に 雨が窓をたたいていたことはかつてなかったなと、恭一はぼんやりと考えてい た。
 自分のデスクに座ると、恭一はおもむろに電話の受話器を取り上げ、自宅へ 通じる短縮ボタンを押す。呼び出し音が二回なったところで、はっと我に返り、 恭一は受話器をたたきつけるように元の位置へと戻した。
 ....何やってんだ、俺。
 ふうと一つ息をついて、まだ暖かいマグカップを両手で包む。一口飲んでカッ プをテーブルに置いたとき、恭一は何か物音を聞いた気がした。
「はい!」
 わざと大きな声で返事をする。ノックではなかったことは明白だが、何故か 口から出てきたのはそんな言葉だった。
「誰ですかあ?」
 そう言いながら席を立ち、大股でドアの方へと歩いて行く。ドアにたどり着 くと恭一は、迷う間を空けないように勢いをつけてドアを開けた。
「....へ?」
 そんな間抜けな声を、恭一は発してしまった。自分の見た物が信じられない というように、何度か目をしばたかせる。恭一が見た物は、だがやはりそこに 存在していた。
 傘。恭一の足下に、黒い傘がきちんと置かれていた。
 しばらくして、恭一はその傘に手を触れる。外の冷気で表面は冷たいが、濡 れてはいない。その傘を手に取った時、恭一はひやりと背中に寒気を感じ、あ わてて部屋の中へと傘を持ち込んだ。
 何故傘がここに?
 再び恭一はデスクに戻ると、謎の傘を机の上に置いた。折り目に沿ってきち んと畳まれている。
 恭一は、ここの事務所の人間の顔を思い浮かべ、一人ずつこの傘と照らし合 わせていった。しかしどの人物の顔とも、このきちんと畳まれた黒い傘は結び つかない。だいたい、こんな地味な傘を持ちそうな友人も同僚も、恭一にはい なかった。
 恭一は再び寒気を感じた。そうだ、それにこれがここに飛んできたわけでは ないのだ。恭一がここに来た三時頃からいまドアを開けるまでの間に、あるい はさっき物音のしたあのときに、誰かが、この傘を持ってあのドアの前に立っ たはずなのだ。
 これならドアを開けたとき、銃を持った男が立っていた方がまだましだった かもしれない。こんな風にあれこれ想像して寒気をおぼえる必要は、少なくと もなかっただろう。
(だが待てよ)
 顔を上げて恭一は再び傘を見る。
 さっき部屋に入ってきたとき、俺は気がつかなかったが、傘は壁に立てかけ てあったのかもしれない。きっとこのあたりの廊下に落ちていた物を、警備員 か誰かがひろってそうしておいたのだろう。それがさっき何かの拍子で倒れて しまった。さっき聞こえたあの音は、その時のものだと考えれば納得がいく。
 そういえば、そんな音だった気もしてきたなと、恭一は無理矢理納得する。 なんだかびくびくしていた自分がおかしくなって、恭一は少し口元をゆがめて 笑うと椅子から立ち上がった。傘を手にとり、帰る支度をすると、そのままド アに向かった。
 明日までに返しておけばいいさ。
 傘の柄を握り直し、恭一はドアのノブを回した。電気を消し、事務所の鍵を 閉めると、静寂と闇に恭一はひとり取り残される。かつん、かつんと響く自分 の靴音を聞きながら、恭一はただ、自分の行く道だけを見て歩いていった。
 ビルの入り口のドアを引くと、しめった風とともに雨が地面を打つ音が聞こ えだす。まだ当分止みそうにない。恭一は恨めしそうに空を見上げると、傘を 開いて雨の中へと走り出した。
 傘を差してはいるものの、下からの跳ね返りと前からの風で、あっという間 に恭一はずぶぬれになってしまった。これなら傘がないほうが走りやすかった なと愚痴っても、何せ傘は借り物だからここにおいて帰るわけにはいかない。 傘を畳んだ方がまだ速いかもしれないと、それを実行に移そうとしたとき足が もつれ、恭一は体をしたたかに地面に打ちつけることとなった。
「...畜生!」
 のろのろと起きあがると、恭一は転がった傘を拾おうと右手を伸ばした。傘 の方に被害はないようだ。柄をつかみ、傘を杖にして立ち上がる。濡れた髪か ら、滴が地面に落ちるのを見て、恭一は突然、強烈な孤独感におそわれた。回 りを見渡しても、人どころか、野良犬さえもいない。
 沙智子...
 恭一の脳裏に、ろうそくの火がともるように沙智子の笑顔が浮かぶ。出会っ てから五年間、恭一が見てきた笑顔がいくつも、いくつも。
 目を閉じてそうして立ち尽くしていた恭一が、しばらくしてから右足を踏み 出した。そして、左足。
 謝ろう。
 恭一は心の中でつぶやいた。いつからか、隣に沙智子がいることを当たり前 のように思っていた自分に気がついた。そして、今日の彼女の一言一言を思い 出していたのだ。
 謝ろう。
 そう意を決してしまうと、激しい雨に打たれながらも、恭一は久しぶりに心 が晴れ渡ってゆくのを感じていた。
 閉じていた目を開いて、恭一が再び走り出そうとしたそのとき、雨の音に混 じって背後で何か音がした。思わず恭一は振り返る。
 何が起きたのか分からずに立ち尽くすのは、今日はもう二度目だった。
 今度は傘ではなかった。物ではなかった。
 足がある、手がある。向いている方向は正しくないが、首も、そして髪の毛 も。
 一面に散った鮮紅色の液体と、雨が混じって川を作る。その川の支流がだん だんに増えていく様子を、恭一は呆然と見つめていた。
 支流の一つが、恭一の足下に届きそうになったとき、彼はやっと現状を把握 した。
 女が、ビルから、落ちて、死んだ。
 それを声に出して言ってしまうと、恭一は無表情のままくるりと振り向き、 一目散に走り出した。

*   *

 女が、ビルから、落ちて、死んだ。
 幾度も幾度も、そんな文章と今見た映像が脳裏を横切る。気を抜くと、目の 前が真っ白になってしまいそうなそんな感覚を覚えながらも、恭一はマンショ ンへ、沙智子の元へ走り続けた。
 エレベータを横にして、恭一は非常階段を八階まで上る。鍵の掛かっていな いドアを開けると、自分でも信じられないほどの大声で沙智子の名を呼んだ。
「沙智子!」
 靴も脱がず、中へはいる。寝室、リビング、キッチン、書斎...いない?
 もう一度恭一が沙智子の名を呼ぶと、それにも負けない大声が恭一?と答え た。
「お風呂よ、なんなのよ一体?」
 沙智子が言い終わらないうちに、恭一は浴室の扉を叩き開けた。
「沙智子!」
「ちょ、ちょっと、どうしたの?落ちついてよ、とりあえず靴脱いで!」
 恭一は沙智子の顔を見ると、そのままそこに座り込んだ。沙智子は浴槽から 顔だけをのぞかせて、不思議そうにもう一度、どうしたの?と恭一に尋ねる。 恭一はそれには答えず、ゆるゆると首を振り、そして小さな声で笑った。
 馬鹿だな、沙智子はここにいるじゃないか。
 ひょっとしたらあの女は、という疑念が、あの死体を見た直後に恭一の胸を かすめていた。走っているうちにその疑念は確信へとかわり、恭一を狂わんば かりの不安へと駆りたてたのだった。
「恭一...さっきはごめんね。」
 沙智子の声に、ふと恭一は顔を上げる。化粧っ気のない沙智子の顔が、恭一 の目の前にあった。
「ずっと、寂しかったの。オーディションが近かったから、どんなに古いつき あいの仲間でも、何となくぎこちなくて、頼りきれる人がいなくて。稽古場も、 緊張の糸が張りつめていて、息苦しかった。だから、いつも以上にあなたに甘 えていたのかもしれないわ。」
「いや、...俺が悪かったよ。ごめんな。」
 そう言うと、恭一は今更ながら片方ずつ靴を脱いだ。
「大阪に行かなくても、舞台はあるわ。ここで、今まで通りがんばるつもり。」
 微笑んだ沙智子の顔を見ると、恭一は立ち上がり、浴室を出た。何かがふっ きれた気がした。


2


 お新香に延ばす箸をとめて、沙智子が立ち上がる。鞄の中の携帯電話が鳴っ たのだ。
 仕事での電話はそれぞれの携帯電話に回すようにというのは、二人が結婚し たときからの決まり事だった。
「はい、高路ですが。...あら、結城さん。」
 確か劇団の演出家の一人だ。意外そうな声を出した沙智子をちらりと見てか ら、恭一は味噌汁をすすった。
「え、はあ。はい、大丈夫ですが。第二稽古室でいいんですね。はい、それじゃあ。」
 手短に電話を切ると、沙智子は手帳を取り出してメモする。
「なんだ、もう役が回ってきたのか。さすがだな。」
 少しふざけた口調で恭一が言うと、沙智子は手帳を閉じて顔を上げた。
「それが変なの。ほら、例の大阪公演の主役なのよ。」
「え、だってそれは」
「突然佳野子から電話があったそうよ。今回は辞退させてくれって。」
 眉間にしわを寄せて、沙智子は再び箸を握った。
「変だわ、彼女あんなにあの役やりたがっていたのに。」
「なあそれより、どうするんだ、その役やるのか?」
「ううん、明日斉藤さんに会って、はっきりと断るつもりよ。でもね、あの公 演、東京でもやることを考えているらしいから、その話も聞いてきたいし。」
「そうか。あ、じゃあもしかして佳野子さん、それで辞退したんじゃないか?」
「あらでも、東京公演の話を聞いたのは今の電話でよ?決まったのもついさっ きみたいだし、佳野子には連絡が付かないって結城さんこまってらっしゃった わ。」
「ふうん...」
 恭一はなんだか腑に落ちないものを感じながら、鮭をつついていた。
 東京公演があるって話なら、沙智子がもっと喜んでもいいんじゃないか、と 素朴にそう思ったのだ。でもまあ、佳野子さんの原因不明の自主降板や行方が つかめない不安でそれどころではないのだろう。
 恭一の疑問はそんな風にふと浮かび、そして次の瞬間にはもう頭の奥の方の 引き出しへとしまいこまれていた。


3.


 激しい雨はその夜の内に止み、月曜日の朝は晴れた空の下で始まった。
 沙智子は朝食のトーストとコーヒーを流し込むと、出かける支度をはじめた。 恭一はいつもどおり、十時の出勤に備えてゆっくりと身支度していた。
「なんだ、ずいぶん早いんだな。」
「九時半に集合なの。ごめんね、片づける時間がない。」
「いいよ、やっておく。ほら、八時半だぞ」
 あわてて大きな鞄をしめると、沙智子は玄関へ向かう。もう三十分早く起き ればいいのに、といつもと同じように沙智子にはっぱをかけると、恭一は玄関 まで彼女の後を追っていった。
「あれ。」
「え、何?」
 スニーカーに足をつっこむ沙智子の後ろで、恭一が体をこわばらせた。玄関 の靴箱と壁の隙間に、隠れるように立てかけられているこの、傘...
「これ...こんな傘、家にあったか?」
「え、あ。やだな、これ、昨日あなたが持って帰ってきたんじゃない。」
 どくん、と恭一の心臓が音をたてた。
 黒い傘。
 昨日のあの悪夢がよみがえる。遠目だったがはっきり見えた。固まった表情 にはりついた髪の毛、投げ出された手、川となり流れる血...
「どうしたの、真っ青よ!恭一?」
 沙智子の声で恭一ははっと我に返った。汗が幾筋も顔を流れ落ちてゆく。体 ががくがくと震えた。
「なに、どうしたのよ?」
「いや」のぞき込む沙智子の顔から目をそらして恭一は言った。「なんでもな い。きっとこの間までの仕事の疲れが、まだ抜けきらないんだ。」
 全然納得できない、という顔をしている沙智子を無理矢理送り出すと、恭一 はドアを閉め、鍵をかけた。しばらくその体制のまま玄関にただずんでから、 リビングへと足を進める。
 忘れよう。運が悪かったんだ。
 昨日から、恭一が胸の中で何度となく繰り返していた言葉だった。
 結局昨日のあの出来事については、沙智子には話さなかった。だいたい、口 に出すのすら嫌だった。俺には関係ない。とんでもないところに出くわしてし まっただけだ。すぐに警察が適切な処置をするだろう。
 だがそう簡単にあの記憶は恭一の頭から消え去ってはくれなかった。予想は していたことだったが、昨晩は三十分おきに脂汗を流しながら飛び起きたせい で、ろくに睡眠をとることが出来なかった。
 忘れるんだ、とにかく。
 だがそう思いながらも、手はいつの間にか今日の朝刊をめくっていた。女性 の飛び降り自殺、そんな見出しを血眼になって探す。だが、恭一の目にはそれ らしい記事は飛び込んでこなかった。確認のため、表を返して日付を見る。間 違いない、今日の朝刊だ。
 そういえば昨日あれから、パトカーが行き来するような音も聞こえなかった。 あんな雨だったから気付かなかったのだろうか。  テレビが九時半を知らせる。恭一はいつも以上に波打つ鼓動を感じながら、 のろのろと上着を着ると事務所へ向かった。

*   *

 いつもはバスを使う道を、足だけで進む。自然と恭一は、昨日のあの悪夢の 現場へと向かっていた。そうだ、きっとまだ、警察の人間がうろうろしている はずだ。その現実的な様子を一目見たら、恭一はあの悪夢を振り払える気がし たのだ。
 昨日のあの現場へ段々と近づいている、はずだった。だがどこまでいっても、 それらしき緊迫感や野次馬の群れには出会うことが出来ない。そんなはずはな い、と額に光る汗を拭いながら、恭一は事務所に向かう道を一心に歩く。そし てそのまま、恭一は目的地へと着いてしまったのだった。
「馬鹿な...」
 違う道なはずはない。この数年間、週に二三度の割合で通ってきた道だ。あ わてていた昨日だったからこそ、この道を通ったはずなのだ。あんな時にわざ わざ回り道をするわけがない。
 恭一はもう一度、昨日のおぼろげな記憶に残っている風景へと足を向けてみ た。だがあの事件があった現場のあたりには、同じ様なビルやマンションが建っ ていて、このビルの前という確証は得られない。このあたりを歩けば、きっと それらしい群衆にぶち当たるだろうと信じて疑わなかった恭一は、この事実に 愕然とした。再び心臓が高鳴り始める。
 じゃあ、昨日俺が見たあれは、いったい何だったんだろう。雨の中で見た夢 だったというのか。だがあまりリアルすぎる記憶なのだ。このままでは毎晩の 夢に出て来かねない彼女の正体とその行く先を確かめるまでは、恭一はこの悪 夢から逃げられない気がした。
 冗談じゃない。沙智子との生活も仕事も、こんなにうまくいっているという のに。
 確かめなくては、という一瞬の決意が脳裏をよぎったときに、恭一の目の前 を自転車に乗った制服の警官が通りかかった。恭一の次の行動に迷いはなかっ た。まっすぐに彼の方へ向かい、声をかける。
「あの、昨日この辺でマンションから女性が落下しましたよね。あれは、もう 解決したんでしょうか?」
 聞いていた初老の警官の顔から、人の良さそうな笑顔が一瞬にして消える。 その変化を見て取って、恭一はすぐにしまった、と自分の軽はずみな行動を後 悔した。
「ちょっと、一緒に来てもらおうか。」
「え、いや、すいません。夢だったのかもしれないのでいいです!」
 そう言い終わるか終わらないかのうちに、恭一は巡査の自転車の向いている 方向とは逆向きに走り出し、細い路地に逃げ込んだ。迷路のような路地を、恭 一自身どこに行くのか分からないままひたすらに走る。古い一軒家の立ち並ぶ 薄暗い角でやっと足を止めると、恭一は乱れる息を調えた。
 どういうことなんだ。
 心臓よりも、頭の方が爆発してしまいそうだな、と恭一は混乱する頭でそん なことを考えていた。大事なことが、まとまってくれない。壁にもたれ掛かり、 そのまま座り込むと、恭一は時計を見た。十時半。
 事務所に連絡をする気にもなれなかった。たった一日の間に、三年分ぐらい の体力を消費したような気がして、恭一は肩を落とした。
 やっと呼吸が落ちつく。恭一は空を見上げた。
 昨日の事件が夢だったなど、そんな安易な結論でこの悪夢を終わらせること は出来なかった。そうだ、俺は確かにあの時、死体をこの目で見たのだ。だが あれから、あの死体を確認した人間はいない。
 つまり死体はあの後、誰かの手によって故意的に隠されたのだ。
   ということは、彼女は自殺ではない....?
 そこまで考えて、恭一は首を振った。
 やめよう。これ以上首を突っ込むのはあまりにも危険だ。時間をかけて、忘 れる努力をしなくては。
 ふらり、と彼は立ち上がった。
 うちに帰って、ゆっくり風呂にでもつかりながら、そうだ、あの読みかけの 本を読もう。
 おぼつかない足どりでバス停まで戻り、小銭とともにバスに乗り込む。恭一 は一番後ろのシートに体を投げ出すと、一分もたたないうちにうつらうつらし 始めた。  降りるべきバス停の近くになって、恭一は突然目を開けた。そしてさらに、 目を見開いた。身を乗り出す。
 その時バスは止まり、恭一はそのままの表情でバスを降りていった。ふらふ らとした足どりで、マンションまでたどり着く。そしてエレベーターの前を通 り過ぎると、茶色い重々しい扉の前にでその歩みを止めた。
 そう、だ。
 思い出した。
 あのとき俺は既に、傘を持ってはいなかった。
 その扉は、非常階段の扉だった。昨日のあの時、エレベーターを待っている そんな余裕がなく、恭一はこの扉を押し開け八回までのぼった。
 そう、右手で鍵をはずし、左手でノブを握って、このドアを開けたのだ。
 あのとき俺は、手ぶらだったはずなんだ。
 恭一の脳裏には今、あそこで、死体を見てしまったあの場所で、自分が思い きり傘を投げ出したときの様子がスローモーションで映し出されていた。
 じゃあ、じゃあ。
 何故。
 恭一はゆっくりと鍵を開けると、昨日やったのと同じ様に左手でノブを握り 扉を開けた。
 埃臭い空気が、恭一の周りを取り囲む。踊り場の小さな窓から、わずかに光 が漏れ入っていた。
 恭一は足元を見ながら、一段ずつ、階段を上って行く。自分の足下から視線 を少しも外さずに。やがて、8の文字が書かれた扉の前まで来ると、それを押 し開け、恭一は再び外界の強い光を浴びた。
 自分の部屋の前まで来ると、その視線をあげ、表札をぼんやりと眺める。
 高路 恭一。沙智子。
 沙智子。
 何故。
 表札を見上げたまま、恭一は今朝の何気ない会話を思い出していた。
「これ...こんな傘、家にあったか?」
「え、あ。やだな、これ、昨日あなたが持って帰ってきたんじゃない。」
 そう、沙智子は確かにそう言った。迷うことなく。
 沙智子、と今度は声に出して呟く。恭一は目を閉じた。
 何故、あんな嘘をつく必要があったんだ?
 あの傘を、拾った場所を、言えないわけが、あったんだ。
 分かりきった事をためらうことなく文字にしてしまうと、恭一は壁に頭をも たれさせた。その時触れてしまったインターホンのボタンがチャイムを鳴らす と、突然恭一が考えてもいなかったことがおきた。
 沙智子が、ドアを開けたのである。
「あなた。仕事は?」
 まるで表情のない恭一の顔を見ると、沙智子は言葉の語尾を飲み込んだ。沙 智子はしばらくそのまま恭一の顔を見つめると、ふっと微笑み、恭一の肩を抱 いてリビングへと連れていった。恭一をソファーに座らせて、キッチンで湯を わかす。そして紅茶を入れる妻の姿を、恭一は何を考えるでもなくただ見てい た。
「事務所へは、私が電話を入れておくわ。」
 温かい紅茶を恭一の前のテーブルに置くと、沙智子はそう言った。
「今日一日、ゆっくりと休んで。昨日は、そんな気分じゃなかったでしょうか ら。」
 ベットのシーツ新しくしておいたから、と、沙智子は自分の部屋へと戻ろう とした。
「沙智子」
 かすれた声で、恭一は彼女を呼び止めた。沙智子が振り向く。
「なに、部屋まで連れていって欲しい?」
 くすり、と悪戯な笑みを浮かべて沙智子は近づいてくる。そんな彼女の動き を手で制すると、恭一は沙智子の顔を見ずに尋ねた。
「役は、....もらえたのか。」
「ああ、ええ。東京の公演分は、他に該当者がいないからって、すぐに斎藤さ んから言い渡されて。」
 そうか、と恭一は小さく呟くと、喉のあたりまで出かかっていたもう一つの 質問を飲み込んだ。
 佳野子さんは、見つかったのか。
 そしてソファーから立ち上がったときには、その言葉は既に恭一の体に吸収 されて、跡形もなかった。
 沙智子は恭一の様子を見て意味ありげに微笑むと、くるりと向きを変えて廊 下を歩いていった。恭一はその後に続く。
 沙智子の後ろ姿を、恭一はそっと見やった。そうさ。
 俺は沙智子を愛しているし、沙智子も俺を愛している。それで十分だ。
 この生活を続けるためなら、俺は彼女のどんな事にも目をつぶることが出来 る。
 そう、関係ない。
 昨日の事件も、佳野子さんの失踪も、あの黒い傘も、そして。
 そしてもし、沙智子がその親友を、自分の利益のために突き落とした、この 推測が事実であっても、おれと沙智子の生活は、今までと少しも変わらないの だ。
 恭一は服を着替え、ベットに潜り込んだ。冷たいシーツの感触を心地よく思 いながら、恭一はとろとろと、久しぶりに深い眠りへと落ちていった。

THE END

[ Writings Index ]

画像や音楽、映像ファイルの無断転用を禁じます。リンクフリーですが、リンクをはる際にはメールで連絡をください。>>yana@kt.rim.or.jp

Akiko Yanagawa Logo
Copyrights 1995-2002 Akiko Yanagawa