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fiction
六ヶ月


1


 きれいな青空が眼にまぶしい、そんな春の一日だった。
 春物の新しいコートに身を包んだ悠梨は、ゆっくりと、周りを探るように視線を滑らせながら、並木道を歩いていた。
 静かに春風が彼女のコートを持ち上げたとき、悠梨は思わず、寒くもないのに両腕で体を包みこむ。陽気に誘われて、昼食後の散歩を楽しむ会社員達が、時間を追うごとに多くなってきていた。ここなら静かだからと言われてきたのに、と、悠梨は予想に反したそんな様子を疎ましく思っていた。ふといちゃついているカップルの片方と目が合い、悠梨は下を向いて足を早めた。そのとき。
「あっ、ごめんなさ・・・」
前から歩いてきた影に真正面からぶつかり、悠梨は声を上げる。「前を見てなかったから・・・」 とそこまで言って、彼女は相手の様子が少し変だと気が付いた。顔を上げると、彼、大学生ぐらいだろうか、は、じっと悠梨の顔を見つめていた。
「あの・・・・どこか痛いところでも?」
石のように固まって動かない彼に、おそるおそる、話しかける。それでも彼は微動だにしない。
ひょっとして銅像かしらと、ぱっとその全身に目を走らせる。いや、確かに人間だ。
「あの・・・?」
少し不気味に思った悠梨は、一歩下がって再び声をかけた。お互い見つめあったまま、しばらく沈黙が続く。彼が口を開いたときには、二人の周りにだいぶギャラリーが出来ていた。
「悠梨・・・か?本当に?」
「え」
何で私の名前を?と聞こうとしたが、悠梨の口は開かなかった。なぜかは分からないが、私はこの人を知っている、そう思ったのだ。
「俺・・・はは、夢でも見てるのか?」
彼は軽く頭を降り、それから右手を差し出した。つられて、悠梨も右手を出し、そっと握る。
「・・・ごめん、ちょっと、時間あるかな。」
外出から戻ると約束した時間はとうに過ぎていたが、悠梨は彼の申し出を断れず、不思議な気持ちで後についていった。

*   *

「参ったな、胸がいっぱいで・・・何を言っていいのか」
彼は、少し顔をゆがめて、ふるえる声でそう言い、公園のベンチに腰を下ろした。
悠梨もその隣に座る。両腿の下に手を入れる。また、長い沈黙が二人の間を流れた。
「俺さ」前を向いたまま、彼はつぶやくように言った。「オーディション、受かったんだ。」
オーディション・・・。なにか、頭の中に引っかかるものを感じて、悠梨は顔をしかめる。
「なあ・・悠梨?どうした?」
「あの、」
息を吸って、悠梨は思い切って続ける。「私は、朱野悠梨、で間違いないですよね?」
その言葉の意味を理解するのに、彼は少し時間をおいた。そして顔を上げ、
「ああ。」と、小さく頷いた。
「すごく申し訳ないんですけど、私は」
「いいんだ。分かった。」
悠梨の言葉を、彼は手で遮って、ゆっくりと同じ言葉を繰り返す。「・・分かった。」
そういうと、これ以上は聞きたくないと言うように、彼は両手で耳をふさいで空を見上げた。悠梨のいわんとしていることを彼は本当に理解しているのか、彼女には分からなかったが、彼の様子を見ていると、それ以上は言葉を続ける気にならなかった。
「俺は」耳から手を離して、彼が口を開く。「俺は東勍也。今年の四月で、大学四年生になる。」その名前に、悠梨がまたなにかを感じたとき、勍也は彼女の手を再び握っていた。
「はじめまして・・だな。」
「あ・・の、私、あなたと前に?」
「うん。でもいい。今からまた、知り合えばいいだけだ。」
そう言って勍也は、握った手を上下に振り、そして離した。「まだ時間、大丈夫?」
「え、あ、そろそろ戻らないと・・・」
「そうか」
よいしょと勍也が立ち上がる。しまった、言わなければ良かったと、悠梨は勍也の行動を見て思ったが、約束をした人達の顔を思い出して、ふるふると首を振った。
「あの、東・・さん」
「勍也でいいよ。」
「じゃあ、勍也さん」
「もう一度、会ってくれないかな、改めて。」
言おうとしていた言葉を盗まれて、悠梨は驚いたが、勍也の名を彼女が呼んだときに、一瞬見せた彼のつらそうな表情は、見逃さなかった。
「はい。異存ありません。」少しおどけた口調で言い、悠梨もベンチから立ち上がった。二人で顔を見合わせて、ふっと笑う。「そうだな、明日は?」
「この時間に、ここでいいなら。」
「決まりだ。じゃあ、明日。」
二人はそんな短い会話を交わすと、公園の別々の出口へと足を向けた。
 来た道を戻りながら、悠梨は自分の心がとても温かくなっているのを感じていた。疎ましいと思っていた人の波も、寒くしか感じなかった春の風も、すべてが彼女を幸せな気分にしてくれる。意識を取り戻してからこの一ヶ月、自分の体を抱え込むことしかできなかった彼女の腕は、風に向かって自然に大きく開かれていた。


2


 自分の記憶が戻る可能性はかなり低いと、それを知ったときは悠梨もさすがにショックを受けた。毎日のように病院を訪れて、悠梨をいたわってくれる友人達。だが、そんな日々は彼女にとっては、苦痛以外の何物でもなかった。自分のことを全く覚えていない悠梨を目の前にしたとき、見舞いに来た友人達は誰もが、必ず目を伏せてしまう。何とも言えない気まずい沈黙がしばらく続き、そして彼らは、無理に明るく振る舞い、慰めの言葉を残していく。そんな日々に耐えられなくなって、外出をしても良いという許可が下りると、悠梨は外で出来る限り、時間をつぶすようになっていた。
 そんな彼女が勍也に会ったのは、外出許可をもらってから三日目の事だった。彼女の外出時間は日に日に長くなっていったが、それに比例して、彼女の表情に明るさが戻っていくのを見ると、誰にもそれを咎めることは出来なかった。そして、予定よりも何日か早く、彼女は病院の壁の外へ、なつかしいはずの自分の家へ帰ったのだった。

*   *

 次第に、自分の生活環境を、与えられた知識とかすかな記憶で、以前のものへと近づけていった悠梨は、退院して一週間もすると、大学へ通うようになった。その驚くほどに早い回復の様子を見て、彼女に何が起こったのか、疑問に思わない方がおかしいだろう。久しぶりに彼女の顔を見た友人達は、こぞってそのわけを知りたがった。
「ある人に会ったの。多分、記憶をなくす前に知り合いだった人。」
悠梨は勍也の存在を隠さなかった。「彼といるとね、すごく楽しいの。」
彼女がその顔に、幸せそうな微笑みを浮かべると、聞き手は少し複雑そうな顔をして、「彼とはつき合っているの?」と必ず聞くのだった。
「そんな気がないと言ったら嘘になるかもしれないけど、でも今は、彼のことをまだあまり知らないし。」
「・・・そう。」
聞き手はそして、また少し考え込むようにして、悠梨の顔から視線を外すのだった。
「ねえ、どうして彼の話をすると、みんなそんな顔をするの?」
ある時、悠梨は特に親しくしている友人のひとりに尋ねてみた。彼なら答えてくれるのではないかと、直感的にそう思ったのだ。自分の友人関係に関する知識を持ち合わせていない今、悠梨はそんな直感に頼って人とつき合うしかなかった。
「知りたいか?」
午後いちの講義に向かっていた彼は、隣を歩く悠梨に視線を向けようとはせず、歩調もゆるめずに、つっけんどんにそう言った。
「知らない方が、分からない方が、悠梨にとってはいいかもしれないことだけど。」
いつもとは調子が違う彼の口調に、悠梨は少し戸惑ったが、大きく頷いた。
「自分の知らないところで、人を傷つけるのはつらいわ。」
彼はぴたりと足を止め、そして悠梨を振り返った。
「次の講義、ノートもらう宛はあるな?」
「そんなに長い話?」
「外に出よう。ここじゃ話づらい。」
悠梨の返事を待たずに、彼は方向を変え歩き出す。その様子を少し不安そうな目で追いながら、悠梨は後を追いかけていった。

*   *

 勍也にとってのここ一ヶ月は、信じられないほど幸せな日々だった。
 オーディションの結果主役をやらせてもらうことになり、そして何より、悠梨と再会することが出来たのだ。自分のことを彼女は忘れてはいたが、それでも構わないと勍也は思っていた。いま、現在彼女と会っていることが二人にとっての真実であり、彼女が幽霊だったときの一週間は勍也の心の中だけにあればいい。彼はこの先も、あの一週間のことを悠梨に告げるつもりはなかった。
「勍也!違うだろ。そこは上手に向かうんだ。」
「は・・はい!すみません。」
勍也は小さく頭をふった。明日になれば、彼女に会える。それまでは稽古以外のことを考えないと、そう自分で決めたはずだ。
「もう一度お願いします。」
立ち上がると、勍也は自分でも驚くぐらい真剣な声で自分に渇を入れた。

*   *

 彼が歩調をゆるめたのは、海辺をさんざん歩き回った後だった。もう1時間近く、悠梨は彼の背中を見つめながら、その後を追い続けていた。いい加減に疲れていたが、ここまでついてきてしまった以上、何も聞かないで帰ることは出来なくて、文句も言わずに足を動かしていた。
 この海岸にも、悠梨はなにかを感じていた。小さい頃からこの近辺に住んでいたのだから、その思い出があっても不思議ではない。今の彼女には、それを懐かしむことは出来ないが、だがこうして、ここで海風を体に受けているだけでも気持ちが落ちついた。
「スカートじゃなくて良かった。」
そういって、彼の隣に腰を下ろす。少し湿った土が、ジーパンを通してひんやりと冷気を伝えてくる。悠梨がその土の冷たさにに慣れないうちに、彼は話を始めた。
「こんな事聞くの、少し酷かもしれないけれど、悠梨は事故の前のこと、全然覚えていないの?」
 悠梨が記憶を失った原因は、交通事故だった。一週間の間、生死をさまよってやっと意識が戻ったときには、もう彼女の過去は失われていた。
「ぼんやりとは思い出せても、はっきりとはどうもダメみたい。」
出来るだけ明るい声で、悠梨はそう彼に伝える。「ここには前に来たことがあるかもしれないとか、この人とは知り合いだった気がするとか、人によっては、この人をすごく信頼していたとか、嫌っていたとか、そういう直感みたいなものが残っているときもあるの。」
「俺のことは?」悠梨の方を振り返らずに、彼、義昭は悠梨の言葉を遮る。
「俺のことに関して、そういう直感ってあった?」
吐き出すような彼の口調に少し驚いて、悠梨は彼を振り向く。義昭は前を向いたまま、じっと体を動かそうとしない。悠梨は視線を海に戻して、一つ息を吐くと、ゆっくりと口を開いた。
「義昭といると、すごく安心する。この人には、何でも話していいんだって」
「それだけ?」
突然義昭が振り向いた。「それだけなのか?」
悠梨も彼の目を見る。彼の言いたいことが、痛いほどに悠梨の胸に突き刺さる。
 その目を見ていた悠梨は、勍也の話をすると一様に、友達があのような態度をとるわけをやっと、理解したのだった。
義昭は悠梨の肩を掴んで、そして離した。再び、海を見つめる。
「俺にもうチャンスはないのか?」
悠梨ももとの姿勢に戻り、しばらく何も言わなかった。
「分からない。ごめん、今は考えたくない。」
「勍也ってやつのことを、悠梨は」とそこで言葉を切り、義昭は小さな声で続けた。
「・・分かった。ごめんな。」
その日、二人にはそれ以上の会話はなかった。やがて夕方になり、悠梨が寒そうに体を震わせたのを合図に二人は立ち上がり、海岸を後にした。


3


「悠梨、電話よ。東さんから。」
母親の声ではっと、悠梨は目を覚ました。そろそろコードレスにして欲しいなと、いちいち部屋を出ていくのを面倒に思いながら、それでも仕方なく体を起す。時計を見ると、夜の十一時だった。
 そっか、勍也さん、今日は稽古だったっけと、少しずつはっきりしてくる頭で考える。
「悠梨、聞こえてる?」
「今いく。」
カーディガンを羽織って、寒い廊下へ扉を開ける。思った以上に冷え切った空気を肌に感じ、悠梨は毛布を抱えて部屋を出た。
廊下の突き当たりにただずむ電話までたどり着くと、ゆっくりと受話器を耳に当てる。
「・・もしもし。」
「ああごめん、・・・もしかして寝てた?」
いつも通りの声にほっとして、悠梨は少し息をつく。
「いいの。このまま誰も起こしてくれなかったら、明日の予習が出来なくてまた自己嫌悪に陥るところだったから。勍也さん、今まで稽古?」
「いや、今日は珍しく八時過ぎに稽古は終わったんだけど、それからみんなとちょっと食事してきたんだ。」
「あと一週間でしょ。いいのお?そんな息抜きしている暇あるの?」
「はは、まあこれから一週間はそうも言ってられないからさ、今日ぐらいは。」
そんなに大変な時期に、彼の時間を私が借りてもいいのかと、少し悠梨は不安になる。
「ねえ、明日ほんとに、いいの?」
「大丈夫だよ。あ、でも、三時から自主練をするらしいから、それまでになっちゃうんだけど、いいかな。」
「ああ・・うん。そうよね、とにかく今は、出来るだけ練習しておかないと。」
「じゃ、明日の九時に、公園で。」
「うん、それじゃ。お休みなさい。」
がちゃり、と音がして、勍也の声が途切れる。悠梨はしばらくの間、受話器を耳に当てたまま、電話台に寄り掛かっていた。
「仕方がない、か。」
この忙しい時期に、少しでも自分のために時間を割いてくれると言うのだ。その時間が短くなったからって文句は言えないと、悠梨は自分に言い聞かせる。
 ずるずると毛布を引きずって、自分の部屋のドアを開けると、再びベッドに身を投げ出した。目を閉じると、ふっと今日の義昭との会話が彼女の脳裏に浮かんだ。
 事故前に、悠梨が義昭に対してどういう気持ちを抱いていたのか、もはやそれを鮮明に思い出すことは、彼女には出来なかった。しかし多分、二人は友達以上のつきあい方をしていたのだろうということは、今日の義昭の話と今までの友人達の態度から、容易に想像がつく。あのまま事故が起こらなかったら、義昭と自分の関係は大分違っていたのだろうなと、段々と闇の広がっていく頭で悠梨は考えていた。


4

翌朝。朱野家のドアがすごい勢いで開いた。
「お兄ちゃん!傘借りてくからっ!」
もう三十分もトイレを占領している兄に大声で宣言をして、その返事も聞かずに悠梨は外へと飛び出した。
 朝の慌ただしい風景の中を、悠梨は傘を開きながら走り出す。駅まで走って十分で、そこから六駅いって、乗り換えて二駅でと、その道のりの長さを考えて、悠梨は今朝五度目の冷や汗を流した。
 しかし運良く、電車の乗り換えがスムーズにすんで、予想したよりも十分早く彼女は待ち合わせ場所にたどり着いた。呼吸を整えて、そっとあたりを見渡す。待ち合わせの場所に勍也の姿は見えなかった。
「なんだ・・」
声に出して悠梨は呟いて、わざとゆっくりと近くのベンチに足を進め、すとんと腰を下ろす。腕時計にちらりと目をやると、九時五分前を知らせている。まあ、そんなに時間をきちんと守る人じゃあないし、といつもの自分の行動を棚に上げて考える。そんな気はないのに、鞄から本を出して読むふりをしながら、悠梨はちらちらと周りの様子をうかがっていた。
 勍也の姿が現れたのは、九時を十五分ほど過ぎたときだった。結局少しの進展も見せなかった本をためらうことなく閉じて、悠梨は顔を上げ、手を振ろうとした。その手が肩の辺りで目的を果たさずに止まってしまったのは、勍也の隣を同じ早さで歩いている人影を彼女が認めたからだった。
 その人影は、ショートカットで背の高い女の子だった。遠目からでも、そのスタイルの良さがよくわかる。その異常にかっこいい歩き方をする彼女を、悠梨は呆然と見つめていた。勍也が目の前にたち、悠梨に話しかけると、やっと彼女は我に返り、その目線を二人に向けた。
「あの、さ。こちら・・」
「五十嵐珠実です。勍也さんの相手役をやっているの。今日は、私が無理いってついてきちゃったんです、ごめんなさいね。」
何と紹介するべきか言葉を探している勍也を後目に、珠実は言葉を続けた。とても聞き易い、はっきりとした日本語で彼女はことの次第を説明する。
「私たち、今日から一週間、ほとんどお篭りの状態でお稽古なんです。今日の三時までは唯一、みんな自由な時間が持てる日で、それで勍也さんがロンドに買い物にいくって言うから、ちょうど私も買いたい物があったし、同じ場所に行くんだったら、なにも一人で行かなくてもと思って。」
そう言うとからからっと彼女は笑う。その顔もなかなかかわいい。
 悠梨がどう答えていいのかわからずに黙っていると、珠実はさわやかに、行きましょ、と店のある方に二人を促した。
 勍也と会えるわずかな時間を邪魔されて腹を立てているはずの悠梨だったが、彼女自身驚くほど落ちついた態度で二人に接することができた。話をしていて、珠実とはとても気があったし、一緒にいて楽しかった。だが、珠実が勍也と親しげに話をしているとき、特に悠梨にはわからない芝居の話をしているときには、そんな珠実に対する好感が、すべて嫉妬にひっくり返ってしまうのだった。
 結局、悠梨の珠実に対するイメージの大部分を、好感と嫉妬のどちらが占めることになったのかは、当初の予定よりも一時間も早く、悠梨が二人と別れたその事実を見れば、判断するのは難しくないだろう。笑っているとも泣いているともとれるような表情で悠梨は二人の背中を見送ると、その後に控えている講義のことを考えもせずに、ふらふらと町を歩き回り、そして家へ戻っていった。

*   *

「どうした、悠梨。コロッケ食わないなら、俺がもらうぞ。」
ぼっとして箸をとめている悠梨の皿に目を向けながら、兄の一利が返事を待たずに手を伸ばす。
「これ、カズ!」
「あー、なんだよ悠梨!食うならそういえよな!」
母親の防御よりも早く、無言で悠梨はコロッケを口に放り込んでいた。一利はちっと舌打ちをして、きれいになった自分の皿を持って立ち上がった。
「カズ、苺あるけど。」
「ん、ああ、悠梨に持たせて。俺明日までの仕事あるから部屋にいる。」
「ちょっとカズ!・・・悠梨、どうしたの、元気ないわよ。」
いつもの悠梨なら、一利にここでちょっとした喧嘩をふっかけるだが、そんな様子を少しも見せないものだから、母親は少し心配そうに訊ねる。
「あー、ううん、ちょっとね。ほら昨日、予習しないで寝ちゃったから、今日これからやることがたまってて。」
「あらそう。じゃいいわよ、お母さんが苺もって行くから。」
「うーんと、あたしいいや。」
「え、珍しいじゃない。ほんとにいいの?」
「うん。お兄ちゃんにあげて。」
そう言って、悠梨は自分の部屋へ階段を上る。部屋に入るとき、父親のただいま、という声が背中に聞こえたが、悠梨はそのまま部屋のドアを閉めた。
 少し気を抜くと、今日の勍也と珠実のことがどうしても頭をよぎる。悠梨はそれを追い払うように頭を二三回ふると、部屋の電気をつけ、机に向かう。昨日やり損なった予習をやろうと、無理矢理教科書を開く。辞書を引っぱり出し、しばらくミヒャエルやクラウディアの会話につきあっていたが、次第に飽きてきて、気がつくと再び今日の出来事で悠梨の頭は一杯になっていた。ふうと息をつくと、悠梨はペンを投げ出し、背もたれに体をあずけた。  ああ、はっきりしてしまったなと、悠梨は眼を閉じて観念する。私は、勍也さんが好きなんだ。なにをしていても、彼の姿が頭を離れない。そして、今も一緒にいるはずの珠実に、私は嫉妬している。
「参ったな・・・」
手で顔を覆い、呟く。と同時に、廊下の電話が鳴りだした。無意識のうちに、悠梨は廊下に飛び出ると、次の瞬間には受話器を抱え込んでいた。
「はいっ、朱野・・・あ、はい、少々お待ちください・・」
耳に飛び込んできた声は、悠梨の予想していたものではなかった。受話器を置くと、同時に一利がドアを開けた。
「里子か?」
「うん。長電話しないでよ、私にかかってくるかもしれないんだから。」
「あいよ。」
ほくほく顔で、一利は電話台に向かう。悠梨はその態度を見て、わざとらしくため息をついた。
 部屋に戻った悠梨には、もう机に向かう気力はなく、しかしまだベッドに入る気もしなくて、仕方なく本棚から一冊の文庫本を取り出し、床に座り込む。近くに放ってあった毛布を手繰り寄せて体をくるみ、カバーの掛かったままの表紙をめくった。おどろおどろしい殺人事件が次々と起こり、好奇心旺盛な女性ルポライターとカメラマンがその事件を解決してゆき、そして最後にはその二人はうまく結ばれるといった内容だった。一気に読み終えてしまって、ほうと息をつく。時計の針は、十時二十分を指していた。
 いいわよね、と、悠梨は恨めしそうに読み終えた本を眺めた。この女性みたいに、かっこいい言葉で好きな人を射止められるなら。どんなに横やりを入れられても、不安とか嫉妬を、胸にしまってがんばれるなら。机の上で空いたままになっている教科書と辞書を眺めて、再び悠梨はため息をついた。
「悠梨。」
突然ドアが開いて、一利が顔を出す。悠梨が驚いて振り向いた。
「なによお兄ちゃん!ノックぐらいしてよ、着替えてたらどうするの。」
「いいのか、そんな無駄口たたいてて。電話だぞ。」
電話、と聞いたときにはもう、悠梨は一利の横をすり抜けていた。受話器を持つと同時に声が出る。「もしもし?」
「俺、勍也。」
「どうしたの、練習は?」
以外と冷静な自分の態度に、悠梨は少し驚きながら、ゆっくりと話しかけた。
「今出番待ちなんだ。」と、少し間が空いて、ごめん、という小さな声が聞こえた。
「きょうはごめん、本当に。」
もう一度繰り返すと、勍也は再び間をとった。悠梨の反応を待っている。
「・・あの、私も、何か嫌な態度とっちゃって、彼女気を悪くしていなかった?」
「いや、平気みたいだよ、今は。」
今は、という言葉に悠梨は少し、黙った。「珠美さん、そこに?」
「え、いや、いまソロの練習してる。」
そう言ってまた沈黙。何となく気まずい。あわてて悠梨は何か言葉を探すが、それでも声がでない。そんな重い雰囲気を破ったのは勍也の方だった。
「練習、見に来ないか?」
思いもしなかった言葉に、悠梨はまたしばらく黙った。「悠梨?聞こえてる?」
「あ、はいっ、うん聞こえてる。」
「都合悪い?」
「・・・いいの?いっても?」
「大丈夫。ほかの連中もやってることだから。どう?稽古風景なんて、あんまり見られる物じゃないから、よかったら。」
突然珠実の顔が頭に浮かび、悠梨の顔が曇る。だがあわてて、それを悟られないように、彼女はすぐに言葉を続けた。
「行く!行きます。何か差し入れもって行くね。」
「本当?食欲の固まりみたいな奴等ばかりだぞ。」
「勍也さんも含めて、ね。」
「ま、そういうことだな。」
ふふ、と悠梨が声に出して笑う。「いつ?」
「えっと、そうだな、明後日は?」
「何時頃?」
「夕方だったら、衣装あわせだし、そのころなら多分一時間ぐらい抜け出せると思う。」
抜け出せる、という言葉に、悠梨の胸は締め付けられる。今日のことを、勍也がとても気にしていることが、悠梨にひしひしと伝わる。
「じゃあ、六時頃でいいかな。一応、五時まで講義があるから。」
「ああ。待ってる。」
「・・・それじゃあ、練習がんばって。」
「うん、おやすみ。」
お休みなさい、といって、悠梨は受話器を置いた。さっきまでの沈んだ胸が、嘘のように軽い。
「なんだ、なににやついてんだよ?」
風呂に向かう一利が、悠梨を見てこわごわ訊ねる。「え、私?」
「気持ち悪い。」
「いいじゃない、たまには。苺あげたでしょ。」
スキップをしながら遠ざかっていく妹を、一利は不思議そうな目で見送った。

*   *

「悠梨、さん?」
背後から飛んできた珠美の声に、勍也は振り向く。
「ソロ練習は終わったの?」
勍也は何気なくそう聞くと、受話器を置きながらアドレス帳をそっと背中に隠した。
「うん。今日のところは。ね、悠梨さんに電話してたの?」
からかうような口調で、珠実が勍也の顔をのぞき込む。
「照れなくたっていいじゃない。今日はほんと、ごめんね。興味本位が手伝って、つい野暮なことしちゃった。」
「勍也!」
稽古場から、二人に向かって声が飛ぶ。
「勍也、二幕の公園のシーンやるってさ。」
「ああ、今行くよ。」
「練習見に来るんでしょ、そのうち。」
異常にしつこい珠実の態度を、少し疎ましく思いながら、ああ、と曖昧に勍也は答え、稽古場へ足を向ける。
「ふうん。楽しみね。」
意味深な言葉を残して、珠実は先に稽古場へと走っていった。
「楽しみって」
「勍也!早くしろ!」
演出家のドスのきいた声に、勍也はそれ以上珠実を追求することをあきらめ、あわてて彼女の後を追った。


5


 その次の日の行動を、悠梨は記憶にとどめていない。あっと言う間に時間は過ぎ、差し入れの準備をしているといつの間にか夜になっていた。本当に約束は次の日なのか、悠梨は少し不安になりカレンダーを見るが、どうやら間違いはない。シャワーを浴びて、歯を磨いて、家族におやすみを言うも忘れて悠梨はベッドに潜り込む。そして次に気がついたときには、悠梨は稽古場を探して歩き回っていた。
「悠梨!こっちだ。」
聞き慣れた声に悠梨がはっと顔を上げると、シャツに黒いスラックス姿の勍也が立っていた。
「迷わず来れた、みたいだな。」
そう言うと、勍也は笑った。
「そうでもないわよ。駅から三十分もかかっちゃった。今、練習じゃないの?」
そう言って悠梨も笑い返そうとした時、勍也の背後から聞き覚えのある声が聞こえ、悠梨の顔が思わずこわばる。
「勍也さーん、一幕三場もう一度立ち位置確認を・・あれ、悠梨さん!」
そう言って顔を出した珠実の方は、もう衣装あわせがすんでいるらしく、淡いピンクのロングスカートの上に、真っ白なブラウスを着て、少しきつめの化粧をしていた。
 化粧栄えのする顔に向かってちょっと愛想笑いを投げかけると、悠梨はすぐに目をそらす。
「ねえ、練習見てってくれるんでしょう?ほらこっち!」
相変わらずの口調でそう言うと、珠美は悠梨の手を引いた。少し戸惑いながらも彼女に逆らわず悠梨は後をついていった。少し不安そうな顔をした勍也もそれに続く。
 稽古場は、悠梨が思った以上に広かった。鏡張りの壁に囲まれた空間で、それぞれに振りの練習をしたり、片隅では衣装あわせをしているようだ。へえと意識せずに声を漏らしながら、珍しそうに悠梨は稽古場を見回した。
「勍也、一幕三場だ。準備しろ。」
「はい。」
ごめん、と悠梨に小声で言うと、勍也は偉そうにふんぞり返っている演出家らしい人物の前に走っていった。後に珠実も続く。
 さわさわと十人ほどのほかの出演者も集まり、自分の立ち位置につく。一分もしないうちに彼らはほかの世界の人間になる。
 勍也と珠実が、激しい口論を始める。勍也の父親は刑事、珠実の父親は泥棒らしい。二人はそれぞれの父親のために、お互いを利用する目的でつきあっているのだ。その二人が火花を散らし、口論の末に、ついに魂胆を表面化させてしまう。薄々気がついてはいたものの、二人は深く傷つく。そんなシーンだった。
「はいOK!じゃあ、今の感じでいこう。」
ぱんぱんと、演出家のたたく手の音で、悠梨ははっと我に返った。すっかり目の前の世界に飲み込まれてしまっていたらしい。ざわざわとした雰囲気の中で、悠梨はほうと息をついた。いままでに何度か芝居を見たり、映画を見たりしてきたが、こんなに引き込まれたことはなかった。
 主役に抜てきされた勍也は勿論だが、珠美のその演技力に悠梨は特に驚いた。稽古が始まった途端に、表情からしぐさから、何もかもががらりとかわってしまう。スカートをはためかせて、稽古場を所狭しと飛び回る。
 立ち稽古が終わると、勍也はすぐに衣装あわせにはいる。手を振り、再びごめんというしぐさをする勍也に、悠梨は少し無理をして笑いかけると、ここにいるからと近くの椅子を指さして座る。勍也は衣装係の女性に引っ張られて稽古場から姿を消した。
「どうだった?」
声のしたほうを悠梨は振り向く。長い髪をきちんとまとめた女性が、悠梨の隣に椅子を引き寄せて腰を下ろした。「わたし、田村由比。ほら、スージーの友達のテッサ。」
スージーは珠美の役である。テッサは、傷ついた彼女を慰め、勍也の演じるトーマスとの橋渡しをするという、意外と重要な役である。さきほどの練習の場面では少ししかテッサの出番はなかったが、なかなか存在感のある演技をしていたように悠梨は思い、そう彼女に告げた。
「あら、嬉しいこと言ってくれるのね。」
「ほめ言葉になってますか?」
「十分よ。ありがとう、すごく励みになるわ。」
そう言うと、彼女と悠梨は顔を合わせて笑った。悠梨は自分の名を名乗ると、少しはしゃいで言葉を続ける。
「勍也さんに、練習を見に来ないかって誘われて。でも驚いちゃいました。こんな所初めてだし、ここまで間近でお芝居見たのも初めてだから。」
ふうん、と由比はうなずくと、にっこり笑った。「そうか、あなたね、勍也君の彼女って。」
「へ?」
悠梨の反応がよほど面白かったのか、由比が今度は声を立てて笑い、そして続けた。
「もっぱらの噂よ。勍也はしょっちゅう彼女の家に電話をしているって。」
「いえあの、まだ彼女って訳じゃあ、ないんです。」
「あらそうなの?」
由比はちょっと意外そうな顔をして、小声でつぶやく。「そう、珠美は知っているのかしら。」
「珠美・・さん?」
その名前に、悠梨はどきり、という胸の鼓動を感じながら、そう尋ねた。
「あっと、ごめんね、これ以上は言えないの。」
そう言うと、由比は席を立って稽古場を出ていく。そこまで言ってしまったらもう遅いのではないかとそう思いながら、悠梨は視線をゆっくりと由比から珠美に移した。  その姿を見て、悠梨の胸は再びざわめく。珠美は他のメンバー達数人と円を作り、打ち合わせをしていた。彼女の隣に、いつの間にか着替えをすませた勍也の姿が見えたのだ。
 勍也はブルーのスーツを着て、薄く化粧をしていた。いつもとはまるで違う彼の様子に、悠梨は胸を高鳴らせる。しかし次の瞬間、どっと笑いがはじけて、悠梨の視界に整った珠美の顔が割り込んできたとき、彼女はたまらず稽古場を飛び出してしまっていた。
 忙しいあの雰囲気だったから、きっと私の行動に注意を払っている人なんていないだろうと、少しひがみっぽく思いながら、悠梨はとにかくそのビルから飛び出した。一つ目の角を曲がったところで速度をゆるめ、乱れる息を調えながら道を進む。人気のない小さな公園に入っていくと、悠梨は一番近くにあった滑り台のタラップにそっと座った。その時になって、自分が手ぶらな事に気がつく。もう一度あそこへ戻らなくてはならないことを思うと、沈む心がさらに重くなる。
 悠梨が、膝を抱えていた手を手すりに移したとき、ふと彼女の目の前が暗くなった。顔を上げると勍也が立っている。衣装は着替えたらしく、はじめに会ったときの格好だ。
「・・・け、勍也さん、練習が」
その言葉には答えずに、勍也はしゃがみ、悠梨の目の高さに顔を持ってきた。
「寒くない?上着、置いたままだろ。」
「・・少し。」
うつむいた悠梨の様子を少し眺めてから、勍也は帰ろう、と促す。
「風邪ひくよ。稽古場に戻ろう。」
「ごめん、私、今日はもう帰るから。差し入れ、良かったらみんなで分けて。」
「だって荷物もコートも置いたままだろ。」
「・・うん。」
「何かあったの?」
どう説明していいか分からなくて、悠梨は黙ってしまう。
「いいづらい事?」
「・・・・。」 うんともすんとも答えない悠梨に、勍也は少し溜息をつき、その場に腰を下ろした。
「悠梨」
悠梨の右手に自分の左手をのせて、勍也はいつもと変わらぬ口調で続ける。
「いまさらだけど、俺が好きなのは珠美じゃなくて、悠梨だから。」
一瞬勍也の言葉の意味が理解できなくて、悠梨はその一言を頭の中で何度か繰り返す。そして顔を上げた。
「聞こえた?悠梨。」
勍也の手が温かい。悠梨の意識は、なぜか彼の言葉に集中しない。悠梨の目は、ぼっと勍也を見つめている。
 オレガスキナノハタマミジャナクテ、ユウリダカラ。
 十回頭の中で繰り返したあと、悠梨はやっとそれを日本語として認識することに成功し、顔を赤らめた。そして思わず、勍也の顔から目をそらす。
「勍也さん、こんなところにいていいの?」
悠梨は下を向いたまま、さっきの質問をもう一度繰り返した。
「ほんとは、ちょっとまずい。」
「じゃあ、戻って。・・私も、荷物は取りに行くから。」
そういって悠梨がすくっと立ち上がる。目線はあわせずに、だ。
「ああ。・・今度会えるのは、もう本番の時だけど」
勍也も立ち上がって続ける。「電話はするから。」
 公園を出ると、勍也は悠梨の手をとって歩き出した。悠梨は、なぜかこぼれそうになる涙を必死でおさえながら、そのあとに続いた。胸が熱かった。
 戻った勍也は、ぶーぶー文句を言うメンバーにまとめて大声で謝ると、すぐに立ち位置に着いた。悠梨は自分の荷物を持つと、そっと稽古場を抜け、外に出た。
 なんだか訳の分からないまま、悠梨は道を歩いた。家にたどり着くまでに、何度勍也の言葉が彼女の脳裏に浮かんだだろう。その度に悠梨は胸を締めつけられて、下を向いてしまうのだった。
 その夜夢の中に、何度勍也の姿が現れたのか、翌朝起きたとき悠梨は覚えていなかった。


6


 翌日の悠梨の様子を見て、彼女の身に何が起こったのか、聞きたがらない友人はいなかった。少し目を離すと、自分の世界に入り込んでしまうのだ。そうなってしまうと、誰が何をしようと、彼女をもとの世界に引き戻すことは不可能だった。
「悠梨。ねえお願い、何があったのか教えてくれない?気になって仕方がないわよ。」
弁当箱の最後の中身をつついていた津久井舞子は、たまらなくなって悠梨に話しかけた。運良く悠梨はその言葉を聞いていたらしく、少し不思議そうな顔をして舞子を振り向いた。
「私、今日そんなに変、かしら。」
「変よ。それを悠梨が認識してないのがもっとまずい。」
にべもなく彼女はそう言うと、さっさと弁当箱を片付け始めた。弁当箱とお茶の位置を変えて、悠梨の話を聞く体制に入る。
「さ。洗いざらい話してもらいましょうか。」
舞子の目が悠梨を見据える。「何があったの。例の勍也さんの事、なんでしょ。」
悠梨は少し考えこむと、仕方ないといったように肩をすくめた。
「好きだって言われた。」
「やっぱりね。」
その一言を聞いてすべてを理解したかのように、舞子は乗り出していた身を背もたれに倒した。「とうとうそうなったか。返事はしたの?つき合うの?」
天井を見上げた舞子の口が軽く動く。魚のようだなと思いながら、悠梨はううん、と首を横に振った。
「好きなんでしょ。あんただって。」
「好きよ。」
「何が問題なのよ。」
「別に。」
「あーもう!煮えきらないわね!」
いらいらした声で舞子はそう吐き出してから、はっと表情を固めた。
「義昭?」
突然の舞子の言葉を聞いて、悠梨は自分が今の今まで義昭のことを考えていなかったことに気が付いた。何てヤツだろう、と、悠梨は心の中で自分に毒づく。
「違う」
「じゃあ何なの?」
詰問されて、悠梨はさっきの舞子と同じように天井に顔を向ける。
「つき合うとか、そこまで考えたことなかったから、どうしたらいいのか分からなくて。」
正直なところを、悠梨は言葉にした。「でもそうね、返事ぐらいはしないとまずいわよね。」
じっとそんな悠梨の言葉に耳を傾けていた舞子は、言おうとした言葉を、持ち上げたお茶と共にのみ込んだ。悠梨もつられて、冷めたお茶を流し込む。
「ねえ悠梨、短期留学する気ない?」
突然舞子が話題を変える。舞子の手が、飲み終えた茶碗を机におく様子を見ていた悠梨は、その声に顔を上げた。
「短期留学?」
「そう。今までのあんたの成績なら、楽に通れると思うけど。」
なぜ突然彼女がそんな話を持ち出したのか、悠梨は全く理解できなかった。
「一体何だって、突然そんな話を?」
「今日の三時から説明会なのよ。ほら。」
そういって取り出したプリントを、悠梨は舞子から受け取る。イギリスの提携校に六ヶ月の語学留学だった。費用は学校持ちの上、六ヶ月の間に取った単位はそのまま日本に戻ってきても通用するという、なかなかおいしい話だった。
「へえ、おもしろそうね。舞子は応募するの?」
「よく読みなさいって。行けるのはこの学部から一人、なのよ。」
舞子の言っている意味がよく分からなくて、もう一度悠梨はプリントに目をやる。確かにそこには、”募集人数:一人”という文字がでかでかと記されていた。
「で?」
「で?って」舞子が少し言葉を詰まらす。「だから、あんたに行って欲しくて勧めてるんだから、私が応募する訳ないでしょう。」
二人ともお互いに、複雑な顔をしてしばらく見つめあう。やがて、舞子は目をそらし、
「あんたのやりたい事って、一体何なの。」と悠梨につぶやいた。
「記憶がなくなったからっていっても、時間は止まっちゃくれないのよ。大変だと思うけど、ちゃんと目標を見つけなきゃ。そうでしょ?」
悠梨は下を向いた。少し残ったお茶を、意味もなく見つめる。
「私がこうやって留学を勧めているのは、事故の前にあんた」
「やめろ津久井。」
いつの間にか、義昭が舞子の後ろに、スパゲッティーをのせたトレーをのせて立っている。一緒にいた友達は、義昭に構うことなく歩いていった。
「いいじゃないか。それぞれ自分のペースってものがあるさ。」
「悪いけど義昭、口を挟まないで。」
「悠梨の事故の前のことをしゃべらないなら、俺は邪魔しない。」
「・・・わかったわ。それは約束する。」
舞子の一言を聞くと、義昭はちらりと悠梨のほうを見て、窓際の席へと仲間の後を追った。横目でその様子をうかがい、義昭が友達と話を始めるのを確認してから、舞子は再び口を開いた。
「私もね、経験があるから。」
悠梨は返事をせずに舞子の言葉を聞いていた。
「今の彼に告白されて、つきあい始めた頃ね、とにかく彼に会うことだけがこの世のすべてのように思えて、他のことはどうでもよくなっちゃったの。通訳になるために続けていた勉強も全く手に付かなくなって、どんどんそれがひどくなっていったわ。」
悠梨がゆっくり顔を上げると、舞子はそのころを思い出すように窓の外に目を向けていた。
「それとは反対に、彼は着々と自分の目指しているものに近づいていった。私たちの恋愛が、彼にとってはプラスに働き、私にとってはマイナスに働いてしまったって訳。私がこれじゃいけないとやっと気が付いたのは、留学に必要な単位を落としたときだった。ちょっと遅かったわ。」
そういうと舞子は、いつもの無表情な顔に、珍しく笑みを浮かべた。
「それでまた、私はスタートラインからやり直しをしている。悠梨、あなたには私と同じ思いをして欲しくないの。」
「私、その頃の舞子に似ているって訳?」
「そういう訳」
きっぱりした口調で舞子は言い放った。
「どう、とりあえず説明会だけでも言ってみない?今日はデートじゃないんでしょう。」
独特の強引な口調で、舞子は悠梨を説得にかかる。迷っているふりをしながらも、これはもう断れないなと、悠梨は覚悟を決めていた。


7


 もらったチケットを、思わず悠梨はもう一度見直す。
「すごいいい席じゃない、悠梨!」
隣からその番号をのぞき込んでいる友人が声を上げる。
「それにこのでっかい劇場・・あんたの彼氏って、一体何者なの?」
お座りください、という会場係の女性の声に、悠梨たち四人はあわてて腰を下ろした。前から三番目のど真ん中の席である。
 友人たちを誘った悠梨ですら、この規模の大きさに驚いていたものだから、彼女たちに何と言っていいか分からずにいると、開演のブザーが鳴った。悠梨たちの目の前で、燕尾服に身を包んだ初老の男性が、客席に向かって会釈をする。彼が指揮者のようだ。くるり、と体の向きを変え、タクトをふると、オーヴァーチュアーが始まった。
 公演時間が三時間と聞いたときには、悠梨は長いと感じたのだが、幕が開いてみるとあっと言う間だった。三十分もすると、目の前にいた勍也や珠実たちが、いつのまにか知らない人になっていて、観客の感情を思いのままに支配する。悠梨が我に返ったのは舞台の幕が下りたときで、その時彼女はぼろぼろと涙をこぼしながら、必死になって手をたたいていた。
 すごかったね、と溜息混じりに声を漏らした佐織が、悠梨を振り向いて少し驚く。
「悠梨?なに、あんたでも泣くことあるの?」
少しほほえみながら、彼女はハンカチを差し出した。その声に、ほかの友達も思わず振り返る。
「あれえ、晴海も。」
「香奈子だってさっきまで鼻すすってたくせに。」
お互いの顔を見合って、彼女たちは笑いあった。
「すごかったね、彼。」
悠梨が返したハンカチを受け取って、佐織が呟く。「悠梨、会ってきたら。感想は、本人に言わなくちゃ。」
 少し下を向いて、もう一度鼻をすすると、悠梨は一度深呼吸をし、彼女にうなずいた。

*   *

 ロビーで待っている、という友人たちの声に手を振って、悠梨はひとり、楽屋に近い扉を押しあけた。左側を振り返り、勍也に教わったとおり、はじめの通路を右にはいる。そこをまっすぐ行ったところに、楽屋へ通じる扉があるはずなのだが、なぜか予想外の人混みに阻まれてその姿が見えない。と、すいませーん、という高い男性の声がして、彼のものらしい両手が、遠くに見え隠れする。どうやらその後ろが、悠梨の探している扉であろうと彼女はうんざりしながら想像した。
「すいません、役者さんに会うことはできません!カードや花束は、受け付けの所でお受けいたしますので、そちらにお願いいたしまーす!」
彼の張り上げた大声を、激しいブーイングが押さえつける。それにも負けず、高い声は何度か同じことを繰り返すと、すごい勢いでドアの奥へと姿を消した。しばらくはしぶとく愚痴っていた楽屋前の集団も、十分もすると少しずつロビーへばらけていった。だがそれでも、悠梨の位置からではまだ扉の全貌は見ることができない。壁にもたれて、悠梨は勍也の電話越しの声を思い出す。
 終わったら、楽屋に来て欲しいんだ。必ずいるから。
 今日、勍也にあったら言おう、と何度も心の中で繰り返した言葉が、段々にしぼんでゆく。そのかわりに、勍也がとても遠い世界の人間なんだという認識が、彼女の心を浸食し始めていた。
 そんな悠梨の口から思わず溜息が漏れたのと、ばたん!と勢いよくドアの開く音がしたのは、ほぼ同時だった。その場にいた人たちの顔が一斉にその方向を向く。まさか!と思って悠梨が一拍遅れて振り向いたときには、視線を一斉に集めた当の本人は彼女の手をつかんで走り出していた。
「け、勍也」
「悪い、とにかく走って!」
それ以上の会話を交わす暇もなく、二人はロビーを突き抜け外へ飛び出した。後ろから歓声と悲鳴が追いかけてくる。何が何だか分からないまま、悠梨はとにかく勍也の紺のトレーナーの後を追いかけ続けた。
 多少体力には自信のあった悠梨だったが、勍也がやっと速度を落とした頃にはへとへとになっていた。もう大丈夫、という勍也のとぎれとぎれの声を聞いたとたん、足がもつれ、悠梨はその場にひざを折って座り込んだ。
「おい・・!悠梨?」
呆然と、座り込んだ勍也の顔を見ていた悠梨は、さらりと風に髪を持ち上げられたそのとたん、急にこらえきれなくなって声を出して笑い出した。
 ぽかん、とその様子を見ていた勍也も、何だかおかしくなって笑い出す。人気のない駐車場の、いつのまにか星が顔を出した空の下で、二人はしばらくけたけたと笑い続けていた。
「すごかったー」
しばらくして、そう叫んだのは悠梨だった。声に出してしまってから、ふと下を向く。
「なにが?」
「舞台。驚いた。」
やっと落ちついた勍也も、上を向いていた顔をいつもの位置に戻す。その気配を感じながらも、勍也の方は見ずに悠梨は続ける。
「でも、すごく怖かったの。」
意外な言葉を聞いて、勍也が悠梨を振り返る。「怖い?」
「勍也さんが、すごく遠い人に思えて、もう同じ世界には戻ってこないんじゃないかって、そんな気がしたの。」
そういうと、やっと悠梨は静かに勍也のいる方へ顔を向けた。
「私、夏休みから六ヶ月、イギリスに行くことになりそうなの。」
思いもしなかった悠梨の発言に、勍也はしばらく何も言えなかった。
「え」
「短期留学。どうしようか悩んでいたんだけど、今日の勍也さんを見ていて、私決めたの。」
「ちょっ・・あまりに急じゃ」
「私は」勍也の言葉を遮って、悠梨は続ける。
「勍也さんと同じ位置に立っていたいの。自分のやりたいことに向かって、精一杯努力している自分でいたいと思ってる。」
少し興奮気味になった自分を押さえるように、悠梨は一息ついた。
「私ね、勍也さんに告白されて、すごく嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、そのことばかり考えていたら、いつのまにか一日が経っているの。勉強も手に付かなくて、でも私はそれでも幸せだったから、これではいけないと思いながらも、そんな状況から脱出しようとしなかった。そんな私を、ある日友達が叱ってくれたの。」
悠梨はそっと、勍也の大きなを両手で包み込み、その瞳を見上げた。
「私は勍也さんが好き。でも、それだけじゃダメだって、今はそう思う。勍也さんが舞台の上で頑張っているように、私も後で後悔しないように、今の私にできる限りのことをしておきたい。勍也さんに負けずに、私も自分のために努力したいって、今日の舞台での勍也さんを見て自然にそう考えていた。」
少し厳しい顔をしながらも、勍也は目をそらさなかった。勢いよく言い切った悠梨の方が、先にその視線を泳がせ、今度は小声で呟いた。
「私はでも、勍也さんみたいに強くはないから、今言った決心がいつまで続くか分からない。だけど」
そこで言葉を切ると、悠梨は勍也の手を握りなおし、顔を上げた。
「そんな私を、見ていて欲しい。頑張っている時も、逃げ出しそうになっている時も、一番近くで。」
悠梨の両手の上に、勍也の右手がそっと重なる。その手に力を入れて、勍也は静かに目を閉じた。
「俺の舞台に対する意気込みに、そう簡単に勝てると思うなよ。」
悠梨はその言葉に少し笑い、分かってる、と頷いた。
「でもまだ先は長いもの。勝負はこれから、でしょ。」
「相手に不足はないぞ。」
芝居ぶった勍也の言い方に、少し緊張していた悠梨の頬がゆるんだ。
 それから十分も経たないうちに、二人が会場に向かって歩き出さなくてはならなかったのは、友達が悠梨を待っている姿を彼女が思いだしたからだった。二人は、ろくに周りの風景も見ずに来た道を、今度はゆっくりと帰っていった。
「勍也さん、」
やっと会場の煉瓦づくりの建物の姿が見え始めたとき、悠梨は横を歩く勍也の名を呼んだ。
「ありがとう。」
まっすぐ前を向いたままの悠梨の手を、勍也は強く握る。
「がんばろうな、お互い。これから大変だけど。」
 勍也の言葉に二人はくすりと笑い、そして手を握りなおした。
 待ちくたびれた悠梨の友人たちや、しぶとく勍也を待ちかまえているファンの姿が、外灯の下にはっきりと見えてきても、二人ともその手を離そうとはしなかった。


THE END

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