[ Writings Index ]

fiction
雨の水曜日

「雨の日って憂鬱ねえ。」
 ため息混じりに裕子がぼやく。隣を歩いていた香世は防水のしっかりきいたブーツを引きずる音を弱めながらどうして、と言った。
「どうしてって、そりゃあ。」驚いた顔をして裕子はいったん言葉を切った。当たり前でしょう、という前置きをしてから続ける。「せっかくのサンダルもスカートもじめじめしてきて気持ち悪いし、泥が跳ねてほらストッキングは汚れちゃうし。女はみんな憂鬱でしょうよ」裕子は首をひねって自分の左足のすねの汚れを見ると顔をしかめ、それをわざわざ香世に見せた。「しかも今日デートなんだよ私。せっかくめかしこんでもこれじゃあね。」
 裕子は傘をぶらぶらと揺らしながら香世が自分の言葉に同意するのを待っていたが、その様子がないことに気づいてじれったそうに香世を振り向いた。口を開きかけて何か言おうとしたがふと表情を変え、裕子はさっきまで考えていたのとは全く別の言葉を口にする。
「あれ、今日水曜日でしょ。香世も三井さんと会う日なんじゃないの」
 裕子の口調が不思議そうなのは、香世の格好に目を留めながら言ったからだった。薄手の花柄のワンピースにヒールの高いサンダルという裕子の格好に比べ、香世の方は七分丈のシャツにショートパンツ、それにブーツとかなりラフである。
「だって濡れるのが分かってるんだったら、濡れてもいいような格好のほうが楽じゃない。」
 香世がそう言うと裕子は立ち止まり、香世をしげしげと眺めながら言った。「ねえ、こんなこと言って気を悪くするかもしれないけど、あんた前の彼、大介くんだっけ、と付き合ってたとき、絶対そんな格好して会いに行かなかった。」
 風が吹き、ちょうど木の下に立ち止まっていた二人の傘に大粒の水滴が落ちてきてばたばたと不規則な音をたてた。「そういえばそうだったね」香世は顔を上げて、音のした場所を確認するように傘の白い布に目をゆっくりと走らせながら言った。水滴が流れ落ちて行く様子が薄く見える。
 あの頃は香世も裕子のように雨という天気を鬱陶しく思っていた。憎んですらいた。見栄をはって着ていた服が汚れるという理由からだけではなく、雨になると予定していたデートのコースを変更しなくてはいけなくなるし、更にそうなることを大介がとても嫌っていたからだった。雨になるとお互いに機嫌が悪くなり、何も話さないままでただその日の予定をこなしていただけというデートの数がだんだん増え、それがピークに達した一昨年の6月(もちろん例年通り梅雨の真っ最中だった)、とうとう香世は大介と別れたのだった。
「趣味が変わったの?新しい彼のせいで」
 目を細めて裕子が香世の顔をのぞき込む。ひやかすときの彼女の癖だ。
「.....まあ、そんなところかな」
 きちんと説明をしようか少し迷ったが、結局そうせずに香世は言葉をにごした。歯切れの悪い香世の言葉を特に気にすることもなく、じゃあそろそろ時間だから、と裕子が時計を見た。大学の校門まで歩いて香世は裕子と別れた。

*   *

 趣味が変わったなんて、そんな簡単なものじゃないんだけどな。
 後ろ姿の裕子の凹脚気味の足を見ながら香世は思う。相変わらず勢いよく水を跳ねている踵が、すねの泥の水玉をどんどん増やしてゆく。
 雨の日が、香世は今はとても好きだった。雨の日に好きな人に逢うのは晴れの日とはまた違った楽しさがあるとも思っている。確かに以前の私には、信じられないことだっただろうとひとり頷き、香世は裕子の後ろ姿に背中を向けて歩き出した。5分ほど歩いたところにあるバス停でバスに乗り、仕事の手を休めている三井の部屋へ向かう。雨が降ったら出かける約束は変更で、三井の部屋に行くことになっているのだ。
「いいから雨の音を聞いててみなよ。」
 はじめて喧嘩をした日、帰ろうとする香世の腕をつかんで三井はそう言った。わけが分からずに香世は険しい顔を三井に向けた。
「...あやまるよ、仕事が終わらなかったことは。映画に行けなくなったことも。でも帰らないでくれ」目をそらして三井は小さな声で言った。プライドの高い彼がそんな顔をするのもそんなことを言うのも、香世はそのときはじめて見た。
「だって、仕事があるんでしょう」ペースを崩されてしまい香世は表情には似合わない気弱な声で訊ねた。「邪魔したくないから帰るよ」
「雨ってさ、カーテンみたいだと思わない?自分と他の世界を、隔てているカーテン」香世の言ったことは無視して三井が言う。「激しく降ると本当に周りが見えなくなるし、大抵の音は雨が地面を打つ音に消されてしまう。そういうのってすごく落ち着くんだ。自分の空間が人に邪魔されずに守られてる、そんな気がして。家にいるときは大抵、雨が降ると窓を開ける。テレビとかラジオとか、音の出るもののスウィッチは全部切って、窓の近くに行って仕事をする」
 開け放された窓際の机の上に、ノートコンピュータから放たれる薄ぼんやりとした光が見える。気がつくと、三井は香世をつかんでいた手をいつの間にか離し、その机の側に立っていた。雨足が激しさを増したのか振り向いた格好で立ちつくしたままの香世の耳にも、はっきりと雨の音が聞こえてくる。雨のカーテン。
「でもこの頃ふと思うことがあるんだよ。香世と一緒に聞いたらもっと落ち着くだろうなって。そう考えるとなんだか、....今度はさみしくなる」
 すこしして三井は香世に背中を見せたままがりがりと頭をかき、なんだかうまくいえない、と言った。もっといい説明の仕方を考えているのだろう、頭に手を置いたままで動きを止めている三井を見ていると、さっきまで熱かった頭の芯が急に冷えていくのを香世は感じた。音がしないようにゆっくりと荷物を下ろす。
 「もういいから仕事して。ここにいるから」わざと無愛想に言いながら香世は台所に入りコーヒーを入れる支度をした。三井に目を向けずに手を動かしていると少しして、うん、という声と椅子をひく音がした。ぱたぱたとキーボードを叩く音が聞こえ始めてから香世は窓の外をそっと見やった。いつもの窓枠の中の光景が白いもやに包まれて、なんだか違う世界に来てしまったみたいだった。三井と二人きりの、コーヒーの濃厚な匂いが漂っているこの部屋だけが、現実の世界から離れて浮き出してしまった。そんな考えが香世の脳裏をよぎり一瞬彼女は驚いたが、そう考えることがなんとも気持ちがいいと感じている自分に気がついた。コーヒーを注ぐ音と雨の音は一つになって、香世の頭にしっくりと馴染んでゆく。

*   *

 あの日から何となく、雨の水曜日はまず三井の部屋に行くのが暗黙の了解になった。はじめの頃はそれでもその三井の部屋から予定通り買い物や食事に二人で出かけていたが、その回数もだんだん減って今はほとんど雨の中を出かけることはない。そうなってから明らかに二人の距離が近づいたと思うのは、香世の希望が多分に混ざっているせいなのだろうか。
 そんなことはない。香世は傘の前のへりを上げながら思う。晴れの日だけを考えて、周りから隔離されることなく付き合っていた大介との1年を振り返ってみればそれはすぐに分かることだ。細かい雨が顔を上げた香世の顔を濡らす。香世は一度瞬きをしてから後ろを振り向いた。もう裕子の後ろ姿は見えなかった。
 こんなこと、裕子に話しても分かってもらえないだろう。そんな家の中にばっかり籠もってたってどうせやることは一緒でしょう。外に出て二人でいろんなことを経験したほうがいいに決まってるじゃない。無意識に想像した、そう言って腰に手を当てる裕子の姿に、今さっき見たすねの泥はねがオーバーラップする。
 私はもういいや。自分の足下を見て香世は思う。一年前は裕子と同じようにサンダルにつつまれていた足が、今はがっちりとしたブーツの中にある。それを見て香世は少し微笑むと、顔を上げた。その目に、目当てのバスが交差点を曲がって行こうとする姿が飛び込んでくる。
 香世は鞄を肩にかけ直すと、勢いよく走り出す。何日も続いた雨で出来たたくさんの水たまりの水を、ブーツが気持ちよさそうに跳ねていった。

THE END

[ Writings Index ]

画像や音楽、映像ファイルの無断転用を禁じます。リンクフリーですが、リンクをはる際にはメールで連絡をください。>>yana@kt.rim.or.jp

Akiko Yanagawa Logo
Copyrights 1995-2002 Akiko Yanagawa