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[ Writings Index ]

Write it down.
page 9
2003.1.21-12.19



12.19(Fri)

 ごはんを食べようと思い、冷蔵庫の中を覗くと、キャベツがある。手にとって、袋から出して、ぎょっ!とした。
 先週の前半に買った、「半分にカットしたキャベツ」に間違いないのに、むき出しになっていたはずの切り口の色は全く変わっていない。葉をはがしていっても、まるで今買ってきたもののように、隅から隅まで綺麗な黄緑色で、ぴんぴんしているのだ。もう、買ってから2週間にもなるのに?
 そういえば、と母が言っていたことを思い出す。大手スーパーマーケットで買ったネギと、有機農業や減農薬野菜を販売している生協で買ったネギ、悪くなり色がかわりはじめるところが違う、と言う。前者は、異様に長持ちする、とも。
 私の住んでいる家の近所には、大手のスーパーマーケットが二店あり、どちらも「生産者の顔が見える野菜」とか、「鮮度にこだわりました!」と誇らしげに書いたポスターを店内でたくさん見かける。ついつい、私はそれを頭から信用して、カットキャベツをカゴに放り込んでいた。
 試しに生協でいろいろな野菜を買ってみた。泥がついたにんじんの皮を剥くと、見慣れていないほど鮮やかな、オレンジ色が目に飛び込む。私は、料理は真似事程度にしかしていないけれど、体に入れるものなのだから、食べ物のことはちゃんと考えないとなあ、としみじみにんじんをながめてしまった。



12.4(Thu)

 雑誌を重ねた束の高さが、どんどんどんどん高くなり、さすがに最近整理し始めている。これがなかなか難しい。
 私が買う雑誌は、家具などを紹介するもの、商業や建築のデザインを紹介するものなど、ものの写真が多く載っているものが多い。取っておきたい写真がたくさんある。気になるものだけ切り取り、スクラップを、と思うのだが、雑誌を開いた途端に、これも、あ、これも、といった感じで、広告以外は全部取っておこうか、となってしまう。
 それを開くまでは気が付かなかったような写真や記事は、目をつぶってページを繰り、見なかったことにする。これ鉄則。切り抜いたページの厚みが、もとの雑誌の半分以下になると満足して、クリアファイルに閉じるのだが、そのクリアファイルももう10冊目・・・。


11.5(Wed)

 ほそぼそと通い続けているプール。いつもはたいてい、午前中のはやいうちに行くのだが、今日は夕方に出かけてみた。
 何が違うかというと、まずは泳いでいる人の年齢。圧倒的に若い人が多い。大学生や高校生が、学校のクラブやサークル単位でやって来ている。そのプールには、飛び込み専用のプールもあるのだが、どうやら、彼らは、飛び込みの選手たちらしく、華麗なジャンプを次々に見せてくれた。
 そして、外が見えないこと。いつも、日中に出かけると、コースをぐるりと囲んでいる大きな窓から、走る電車や、鬱々とした運河、それを取り囲む自由奔放な木々が見え、そんな殺風景な景色を見ることがちょっと楽しみなのだが、夜は室内がガラスに映るだけで、どうも面白くないのだ。
 そう思いぼんやり窓を見ていると、映る蛍光灯の光や、独特の音の響き方に、こどもの頃に通っていたプール教室の記憶が重なる。そういえばいつも、練習していたのはこんな時間だった。今、目に映る些細なものを、あの頃も同じように見、感じていたことを思い出す。歩くコンクリートの床に濡れた足が触る、ぬるりとした感じや、コースを泳ぎ終え、縁に捕まったときに目の前に見えるタイルの目地のカビ、耳に詰まってごろごろと音を立てる水、水から上がるときに感じる体の異様な重さ。
 いつもと同じくらい泳ぎ、プールを後にする。やはり午前中に来ようと思う。夕方に来ると、いろいろなことに気が散って、ぼんやりのんびり泳ぐことはできなさそうだから。


9.5(Fri)

 住んでいる家の近く、駅前の一ブロックに新しいビルを建てるため、いままでそこに建っていたビルや家が次々に壊されているのだけれど、その光景を見ると、私はぎょっとする。
 大きな建物がどんどん壊されていく、そのはやさにも驚かされるが、壊されている途中、その建物の中身がむき出しになっているところに通りかかると、目が離せなくなってしまう。窓を通すのではなく、外から突然部屋の中身が見て取れるという異様な感じ。窓にカーテンがだらしなく掛かりっぱなしになっていたり、絵がかかったままの壁は、なんの前触れもなく、途中から忽然と姿を消していたりする。砂壁の小さな和室には、いっぱいに差し込んだ太陽の光は似合わないことや、どんなに古い建物でも、人がその中にいるときといないときでは、生気がなくなり随分感じがかわるものだな、ということも分かる。断面を見ることもできるので、建物の壁というのは想像以上に厚いものだとか、鉄のパイプがコンクリートの中に埋め込まれているから「鉄筋コンクリート」の建物というのだ、とか妙に納得したりもする。
 作業は続いているので、通りかかるたびに光景は変わっていて、分かってはいても、そのたびに私はいちいち心を奪われている。


8.19(Tue)

 今月のはじめに、Dreams Come Trueの野外コンサートに出かけた。
 どういうコンサートなのかを調べずに行ったために、ものすごい日差しの中、数時間を外で過ごすことになった。入場が昼過ぎ、コンサートがはじまるのは夕方だったので、その間、外で待っていなくてはいけなかったのだ。入場時間からコンサートまでの間に時間があったのにはそれなりの意味があり(コンサートが行われた会場は大きなリゾート施設の中だったので、そのリゾート施設でいろいろ遊んだりイベントに参加したりして楽しんでください、という開催者側の意図があった)、それを楽しんだ人たちもいたのだろうが、多くの人は、圧倒的な暑さの中で、会場から移動せずに呆然と時を過ごしていた。
 お昼ご飯を食べると(外で食べるカレー・生ぬるいビール)、することがなくなってしまい、数少ない木陰に入って、誰彼ともなく仰向けなった。帽子を顔にかぶせて、うとうとと昼寝をする。トイレに行きたくて目を覚まし、周りを見渡すと、ほとんどの人がおなじように昼寝をしていた。
 トイレから戻り、改めて入った木陰が、とても心地よく感じる。横たわりじっとしていると、顔の上をわずかな風が通り過ぎる。相変わらずの暑さだが、そこでうとうとと眠ることが、意外と気持ちよい、と感じる自分に、少し驚いた。
 こんな風に、夏、何時間も外で過ごす、ということを、何年もしていないことに気が付いた。こどものころは、夏休み、室内にいることをあまり良しとされなかった。いつも外へ遊びにゆき、時たま図書館で涼む。遠くへ旅行に行くと、アスレチックで遊び、虫を捕りに行き、窓を開け放った部屋で汗をかきながら鰻を食べさせてもらった。そして夏の終わりには、手足や顔が、日焼けで真っ黒になる。目だけが白くぎょろぎょろとした私や妹が写る、いくつもの夏休みの写真。
 日が傾き始めたころにコンサートははじまった。それはそれはパワフルなコンサートで、広い芝生の上、好きずきに踊りながら、次々にやってくる耳馴染んだ歌を、一緒に大声で歌った。汗で体中べたべたになった2万人は、最後に派手な花火を見て、すっかり暗くなった道を、ぞろぞろと帰路についた。

 日焼けどめの乳液を、何度も塗り直していたにもかかわらず、次の日、私の顔や腕・首は真っ赤になっていた。こどものころに比べて、熱がひいて黒くなるまでに随分時間がかかる。やっと日焼けらしく肌の色が落ち着いたのは先週あたり。ここ数日、すっかり夏が終わってしまったかのような涼しい日々が続いているが、くっきりと半袖の跡がついた腕を見ると、私はちゃんとあの1日で、いつもの夏以上に夏を体験したような気がして、すこし楽しい気分になる。



5.21(Wed)

 先日フリーマーケットで物を売った。知り合いの人が住む町の商店街で、年に数回開かれるものに、参加させてもらっている。今回で三回目。段々と、自分が楽しんで、ものを売る方法、が分かってきた気がする。
 最初に参加したときは、せっかく苦労をして持ってきたものを、もう一度家に持って帰りたくなくて、とにかく持って帰ってくれそうな人がいると、その人の言うままに値段をどんどん下げてしまって売っていた。稼ごうとかもうけようとか考えていないけれど、自分が一度は所有していたものを、こんな風にたたき売るようなやり方で手放すのは、何となく後味が悪い。
 今回は意を決して、納得いかない交渉をするお客さんには、売らないことにした。ところが、一度交渉が決裂した物でも、じっと待っていると、意外に「この人なら」というお客さんが来て買っていってくれるものなのだ。その人がものをどういう風に品定めしているか、どう話しかけてくるか、を見ていると、ただ安く買いたいだけなのか、本当にそのものが気に入って手に入れたいと思っているか、驚くほど良く分かる。後者なら、納得して安い値段でも手放せる。今回はそれが分かったことが、新しい発見だった。
 結局ほとんどのものが売れて、売り上げは4000円ほど。筋肉痛にはなったものの、気分爽快のフリーマーケットだった。

 と、楽しみ方が分かったのはいいのだが、売ろうと思うものがほぼ、家からなくなってしまった。嬉しいこととも言えるのだけれど、次に参加するチャンスがあったときはどうしよう・・・。



5.15(Wed)

 「白い服を着た人たちの団体」のことが、(主にテレビで)大きく取り上げられている。
 テレビ局などの中継車がたくさん、後を着いていっていて、機があればその団体の人に話を聞こうと必死になっているようだ。が、やっと話を聞けても、その人たちが言うことは、「意味不明」で「理解できない」という言葉を、インタビュアーがよく口にしている。
 でも、宗教、ってそういうもんだよなあ、と思う。仏教の説法やキリスト教の説教で聞く言葉も、「へえ」とは思うけれど、それを頭から信じることは、少なくとも私はできない。そういう、考え方の体系を作り上げたことには、すごいなあ、とは思うけれど、まさか、キリストが一度死んでしまったけれど数日後に生き返ったとか、ブッタが産まれてすぐに「唯我独尊」と言ったとか、そういうことを本当だとは考えない。それがなにかの比喩だとしても、そこから何かの「教え」を得られるとは思っていない。
 仏教やキリスト教の持っているこういうエピソードを、例えば前述のインタビュアーたちがもしはじめて耳にしたとしたら、やはり「意味不明」だし、こんなことを信じているなんて「理解できない」と、感じるだろうと思う。

 「白い服を着た人たちの団体」の考えていることが問題なのではなくて、それ以前に、公私の土地に無断で車で停泊していることや、交通の邪魔をしていること(引き連れているマスコミの人たちを含めて)、それが目下の問題だと思うんだけど・・・違うのかな。
 考えていることを「理解」できても、突拍子もないことをする人って、たくさんいますよね。



4.14(Mon)

 大学のとき、映画をつくっていた(結局完成はしていないけれど)友達と、数人で“ハナミ”をした。とはいっても、やはり、“ハナミ”は口実で、朝までチェーンの居酒屋にいて、ずーっと話をしていた。なんと11時間(笑)。迷惑な客だったと思う。
 体は疲れたけれど、楽しく、気持ちよかった。
 朝5時、とってつけたかのように、井の頭公園へ桜を見に寄る。人はまばらで、もう散ってしまったかと思っていた桜もまだ残っていた。池の周りを一週まわり、眠っている住宅街を、歩き、家に戻った。
 結婚をした人たちや、仕事で大事なポジションについた人たちもいて、お互い違うところにいるけれど、会うと自分の奥深くのどこかで、つながっていることを思い出す。なんだか不思議。
 次は友達の新居をみに行く予定。


1.28(Tue)

 インターネットや、運送システムの効率が上がったことで、欲しいものを買うことがとても安易になったと思う。自分が使えるお金が増えたことや、ものを手に入れる方法を探す知恵がついたこと、を敢えて無視したとしても、たぶんそうだと思う。
 ウェブページの検索サイトで欲しいものをさがし、欲しいものを選び、申込書に記入、申し込む。日本の国内なら2、3日で、アメリカやイギリスでも2週間まてば荷物は着く。手に入れることがきっと無理だろう、とあきらめていたものを、ここ数年でどれだけ集めることが出来たか。以前考えていた、日本の広さも、海外の国との距離も、全くの錯覚であったかのように感じることが、最近多い。
 でももちろん、そう感じることの方が錯覚で、物理的な距離はほとんど変わっていない(ちょっとずつは動いているところもあるようだけれど)。例えば自分で車を運転して、運転の荒い、車体の大きな運送会社のトラックを目の当たりにするたび、私はそれを再確認する。どんなに簡単に、遠くにあるものが手に入るようになっても、それを実際に運んでいる人が必ずいて、私が焦がれているものたちは、“本当の距離”を少しずつ、移動してやってくるのだ。


1.21(Tue)

 カップラーメンのコマーシャルで、「スープまで飲みたいと思うカップラーメンはなかった」というコピーを聞き、いやいや、あったぞ、とテレビに向かって首を振ってしまった。それはもう、数年前に売られなくなってしまった、あの商品・・・。

 当時私は大学4年生で、卒業論文のための、実験プログラムをつくるという作業をしていた。学校の、コンピュータを置いてある教室で、同じ研究室にいた友達と大抵二人、夜遅くまでモニタをにらんでいた。毎日だいたい18時頃、おなかがすいて近くのコンビニエンスストアに出かける。そこで見つけたのが、「じゃぽん」という風変わりなカップラーメンだった。
 麺は平麺、スープは三種類。クラムチャウダー(黄色のパッケージ)、ほうれん草ホワイトソース(緑)、スパイシートマト(赤)。興味から買ったそのカップラーメンに、私たちはすっかりハマってしまい、まとめて買い占めたりもした。
 私が一番好きだったのは緑のほうれん草ホワイトソース。黒こしょうで味を引き締めてある。濃い味の食べ物が好きな私は、ただでさえも血管の切れそうなこってりしたスープを濃いめにつくったりして、友達にいくらなんでも体に悪い、とよく咎められた。
 食べた後はがらんとした部屋に、なんとも言えない濃密な香りが漂う。嗅覚がすっかりマヒした私たちは、その中でもくもくと作業をしていた記憶がある。
 その後、一度「じゃぽん」は復活したが、それ以来、姿を見せなくなってしまった。あそこまで印象も味も「濃い」カップラーメンは、あまり見かけることがなく、やっぱり体に悪かったからだろうか、とその友達と話している。でも、体に良かろうと悪かろうと、たまにあの「こってり」を味わいたい気もして、見かけなくなったことを残念にも感じている。


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