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[ Writings Index ]

Write it down.
page 6
2000.1.1--9.30


9.30(Sat)

 私が住んでいた町は、昔からの町並みと、新興住宅街が混ざった町だった。通った小学校には、その双方から生徒が集まっていて、自然と行き来するようになる。
 私は新興住宅街の方に住んでいたのだが、割と古い町並みの残る、一丁目に遊びに出かけたことが多かったと記憶している。いつも遊ぶ友達が、そちらに多かったせいか、ただそちらの町並みの印象が強いためかは、今となっては分からないが。
 じめっとした団地の階段の奥や、猫の額ほどの遊び場。江東区は0m以下の土地が多いため、団地の一階部分が上げ底になっていて、雨になるとそこで遊んだこと。
 お小遣いがあると出かけた端のたもとの小さな駄菓子屋と、30円の麺だけ入ったカップラーメン。一丁目の大きな駄菓子屋では、具のないもんじゃも食べられたけれど、そちらは「柄の悪い」体の大きな上級生たちがたまり場にしていたので、一度も入ったことはなかった。
 今年引っ越した家の近くにも、似たような団地があって、夜近くを通ると、さーっとそんなことを思い出す。ここ10年のことよりも、小学生のころの記憶の方が、感覚としてしっかりと残っているのは、なんとも不思議な気がする。時間が経てば、今のことも同じような記憶として残るのかもしれない、とも考えるが、たぶん違う。
 何故かは分からないけれど、私にとって、小学生のころというのは、特別なもののようなのである。


9.28(Thu)

 今回のオリンピックでは、出場している選手の自然な顔があちこちで見られて、それがとても新鮮だったし、おもしろい。勝っても負けても、息せき切ってインタビュアーがマイクを向けると、当人はケロリとしていて、インタビューした方は拍子抜けしてしまう、というシーンが割と多いように思う。
 テレビで「この人はメダルがとれるはずだ!」と言ったことを鵜呑みにして、実際には想像よりもランクが低かったときに(実は自己新記録だったりすることもあった)腹を立てている人が割と多いんだなあ、ということも分かった。オリンピックが始まる前には見向きもせず、何か協力をしたわけでもないのに、テレビで、新聞で騒ぐと途端に期待して、裏切られると怒る。勝手な話である。
 そういいつつも、私もその”勝手な”一人によく加わっている。でも、競技の後、本人の素直なインタビューを聞くと、そのたびにはっと我に返る。当人が一番、自分がなにをしたのかをきちんと認識していて、私たちは所詮外からそれを見ていることしかできないのだ。


8.5(Fri)

 先日、ケーブルテレビで大阪のライブ生中継を放送していて、見るとはなしに見ていた。だいたい私は、同年代の人が好んで聴く曲をあまり聴かないので(流行の波に反発してわざと聴かないようにしているのか相性が合わないのか自分でもよく分からないのだが)、そこに次々に出てくる「名前の知られた」若い歌手たちにはあまり興味がなく、ただ野外ステージの持つなんとも身近でのどかな雰囲気と、その後ろで少しずつ暮れていく空を見るのがちょっといいと思い、チャンネルを変えずにずっとつけっぱなしにしていた。
 井上陽水が出てきた。それまでに出てきた歌手たちや観客の年齢層を考えると、彼の登場は意外だったので、思わず画面を振り返ったのだが、すかさず始まった演奏に私は聴き入ってしまった。知っている曲が多かったこともあるし、他の歌手たちよりも彼の方が親しみがあったこともある(両親が好きで昔から耳にしているから)。でもそれ以上に、そのステージから生まれてくる音の迫力に、気圧されてしまったのだ。
 それまでに4,5人の歌手が同じステージで演奏をしていた。音程のずれや、風にながされてしまうほどの演奏の頼りなさは、ナマ演奏だということと、野外ステージだということを考えると仕方ないんだろうと特に気にもしていなかった。でも彼のステージはまるで違った。彼の声よりも伴奏の音量の方が大きくて、それが気にはなったけれど、ゆるぎない音程のとりかたも、地に足の着いたしっかりとした伴奏も、それまでの歌手たちとのレベルの差を見せつけるのに十分なものだった。音の密度が全然違っていた。
 人が手を加えられるもの(CDやテレビドラマ)だけを聴いて・観て、判断してはいけないことを改めて思う。歌手はステージで、役者は舞台でナマでその芸をみてこそはじめてその人の魅力が分かる。


8.4(Thu)

 こうして自分の部屋でモニタに向かっていると、その先に漫画ばかり入った本棚が見える。引っ越してきたとき、片づいた部屋を見に来た父は、「こんなに目に付くところに漫画がたくさん並んでいたら恥ずかしいだろう」と笑った。
 何も私の親に限ったことじゃないと思う。漫画やアニメーションは「子供のもの」「幼稚で安易なもの」という考え方は、「教養ある」大人の間ではひろ〜く普及している。事実、「幼稚で安易な」漫画もたくさんある。でもそうじゃないものもあることを、認めている人は多くない。今日も民放の報道番組を見ていたら、ある容疑者が「社会人になりそこねた」根拠として、「家に漫画がたくさんあった」ことをまじめな顔をして揚げていた。(一瞬耳を疑った。)
 よく、「漫画なんか読まないで本を読みなさい」と親に言われた。「アニメなんかみないでニュースをみなさい」とも。私は絶対にこの二言は人に、あるいは子供に言いたくないと思っている。「幼稚で安易な」本がたくさん出回っていることも、ニュースによって間違った・偏った報道がたくさん為されていることも、今は知っているから。
 ちなみに今家族のなかで、一番漫画を持っているのは妹で、一番本を持っているのは私。両親は本棚は持っていない。


5.16(Tue)

 E-oneというSotecのコンピュータが、iMacのインターフェースデザインの真似をしたということで、Appleに訴えられたことがあった。この話を聴いたときに私が感じたのは、「この会社にはプライドとかポリシーとか、そういうものはないんだなあ」ということだった。白黒決着が付くまでに、Sotecは何度かコメントを発表したけれど、なにがいけないんだ、という態度に変化はなかった(もちろん、一度商品にしてしまった以上、そう簡単に態度を変えるわけにはいかないから、会社としては当然のことなのだろうが)。
 この一連のニュースをみて、「私たちはこの路線でものを作っていきます」という何か一本筋の通ったものをもとに商売をしている会社は、あまり日本で多くは見かけないなあと思った。むしろ、「なに、いまこれがはやってんの。へえ。なんだかよくわかんけど、じゃあこれっぽいのを作って、ほら材料とかはさ、もっと悪いのでいいから、安くして今のうちに売っちゃおうよ」という心の内が見え見えのやり方で商品をつくっている会社の方が多いんじゃないかと、デパートやモールをみていると暗い気持ちになってくる。(季節の終わりにそういう似たり寄ったりの柄や形の洋服や鞄が、すごい値段でワゴンに積んであるのをみると、数週間その店に足を運びたくなくなるほど気持ちが落ち込む。)
 もちろん、それを喜んで買う消費者も共犯で、お互いにそれで楽しいんだからいいよ、という雰囲気を作る手助けをしていて、それがどこにいっても同じような商品しかない、同じような店舗しか見あたらない、という退屈な景色を作り出している。
 景気がなかなかよくならない、というニュース番組の報道の中で、インタビューに答えた大手スーパーの偉い人が、「お客さんがあまり衝動買いをしてくれない」といったニュアンスのことを言い、それが彼らのスーパーの売り上げを延ばさない理由だと分析していた。不景気になって、いろいろ悪いこともあったけれど、本当に必要なものだけを選んで買う消費者が少し増えているとしたら、それは日本がまともな社会になる大きな足がかりかもしれない。少なくとも、「衝動買い」をメーカーの利益の柱だと考えている会社がうまくいかなくなることは、その会社にとっても、消費者にとっても、悪いことではないはずだ。


4.26(Wed)

 手紙をある友達からもらって、それに触発されて私も別の友達に手紙を書いた。
 パソコンを使うようになってから、キーボードで文字を書く生活にすっかり慣れてしまったので、たまには、と思って便せんに向かったのだが、書きながら、私はすっかり混乱してしまった。
 よく「ワープロで文字を書くせいで漢字を忘れる」と言ったことを聞くが、それは私の場合は全くなかった。むしろ、「なるほど、こう書くわけね」と辞書ソフトが自動的に変換してくれた漢字を覚えるための大事な道具になっている。いわゆる「ワープロに慣れてしまうと手紙を書くときに起こる問題」は私には全然関係なく、それとは全く別の次元の問題がおこったのだ。手で書くと、文章の構成がうまくできなくて、なかなか最後までたどり着けない。
 たとえば、文章を書いていく内にはじめの方で使った助詞がしっくりこなくなってしまったとする。「私は」、じゃなくて「私が」のほうが、読んでいてすっきりするなあと思いつつ文章を続けていくと、どんどん書くべきことが分からなくなってくる。そのページを破る。頭から書き直す。今度は違うところで同じような間違いをやらかす。次の文章がおかしくなる。....というのを、エンドレスで繰り返すことになってしまう。
 ワープロで文章を書いている場合、意にそぐわない方向に向かってしまいそうになったときには、助詞を変えたり、文章の配置を変えたり、分割したり、くっつけたり、が簡単にできるから、はじめから最後のことを考えて文章を書くことが出来なくなってしまったのだ。まあとにかく適当に書いておいても、あとで見直して、構成し直せばいいや、と思って書いているのだろう。
 結局手書きの手紙は、冷や汗を流しつつ、間違えそうな言葉をごまかしつつ、なんとか書き終えた。ワープロを使うことは、これからどう考えても増えてゆくし、便利な道具を使って文章を書くことに慣れることは悪いことではないが、それでもやはり、たった三枚の手紙を書くために、破ったレターペーパーの数を数えて愕然とした。想像以上に、右手が疲れるのが早かったことにも。


4.19(Wed)

 先週、久しぶりに東女の門をくぐって、ぎょっとした。オリエンテーションや教科書販売などがあるので、いつもよりも学生の数が多かったせいもあるが、それよりなにより、そこにいた学生の大半が似たような格好をしていたことが、私を驚かせた。
 ネイビーブルーの細身のジージャンに、膝丈の生地の薄いスカート、膝までのソックス、足下はつっかけサンダル。
 普段めったに女性雑誌を目にしない私にも、これがどうやら今年の「はやり」らしいということは一目で見て取れた。大学の入り口にばかりその「はやり」に感化された人がいるわけはなく、キャンパスを奥へ進めば進むほどに、その「はやり」おねーちゃんの姿をあちこちに見つけることになり、目的の場所に着くまでになんだかぐったりしてしまった。
 あまりに自分と似たような格好をしている人を見ると、私なんかはどうも落ち着かなくなってしまうのだが、そういうのって普通じゃないんだろうか。それが知らない人ならまだしも、知り合いと似たような格好をしてしまうと、居心地が悪くならないんだろうか。
 学生時代に、学校の制服をなくそう、と呼びかけて、生徒にアンケートをしてみたら、制服はイヤだ、という意見が半数にならなかった、という話を何かで読んだ。その人がアンケートをしたのは数十年前だが、たぶんいま同じアンケートをしても、大差ない結果が出るんじゃないかと思う。結局、自分がここの組織の人間である、彼らの仲間である、ということを、目で見て確認できる「制服」が、この国では好まれているんだと思う。  制服は、組織外の人にその人がどういう役割の人か(警官とか看護婦とか)を示すためのものだと聞いたことがあるが、それとは別に、自分たちが自分たちの役割や居場所を、知るための道具としての意味の方が、日本では強いんだなあと再認識。だからこそ、制服を着る必要がなくなると、自分たちで制服もどきをつくって、それを着て安心するのだろう。今回のジージャンもしかり、リクルートスーツもしかり。
 しかし「はやり」の時期を過ぎた洋服や靴は、いったいどこへ行くんだろう。数年前のトラ柄の鞄や、膝丈の皮のブーツを、すっかり見かけなくなった渋谷を歩いていると、ふとそんなことを疑問に思う。


4.15(Sat)

 実家と、妹の下宿への引っ越しがやっと一段落して、一息をついたときに気がついたことがある。
 引っ越しをしたら、感じるであろうと思っていた違和感が、あまりに小さいのだ。これは私だけではなく母も同じらしく、二人で「こんなもんかね」と首をかしげた。
 たとえば私たちがまだ小学生だったとしたら、転校したり、よく遊んでいた友達と会えなくなったりして、今よりも以前の生活を惜しむ時間が長かったかもしれない。家の近くで過ごす時間が少なくなった今だったから、すんなりと新しい家と新しい近所を受け入れられているように思える。

 でもなにより、同じ区内に引っ越したということが一番、この違和感のなさに強く影響しているのかもしれない。なにせ車で10分しか動いていないので。


3.2(Thu)

 五木寛之氏の「四季・布由子」を読み終える。ある家の四姉妹ひとりずつにスポットをあて描いたシリーズの、次女奈津子、(これは映画化されていて、そのビデオが偶然家にあったので暇つぶしに昔観たことがあった)、長女の波留子、に続く三作目、四女の物語である(三女亜紀子が主人公となったものは今のところない)。登場人物のセリフまわしにちょっと気になる癖があったものの、割とおもしろく読むことができた。
 別に読書感想文を書こうと思っているわけではなく、この小説が自分と関係があるのでここで触れただけ。この架空の姉妹の名前が気に入った両親は、どういう風に選んだかは不明だが、その内の一つずつを私と妹の名前に選んだのだ。
 しかし本を、とくに小説を滅多に読まない両親が(その割にマンガじゃなくて本を読めとしきりに勧めていたが)、その架空の人物の生き方までを知っていたかは不明である。割と古風な考え方をする彼らが、私たちに与えた名前の元となったキャラクターを、理想像と思っていたとはちょっと考えにくいのだが。
*作品を読まないと、ちょっと意味するところが分からないかもしれない。申し訳ない。


2.29(Tue)

 引っ越しを一ヶ月後に控え、引っ越し先の照明器具、カーテンなどのパンフレットを山ほどもらい、この部屋はこれ、と決めなくてはいけない時期になった。
 私がきれいだなあ、欲しいなあ、と思うものは、いつも「素っ気ない」だとか「地味」だとか言われる。今回の家のパーツ選びでも、意見を求められたものの、私の意見は片っ端から却下された。まあいいんだけどね。あんまり採用されるとは考えていなかったんだけど。ただ、照明器具のカバーの形状はさておき、「今回は白色蛍光灯はやめようよ。落ち着かないから」という意見も全く無視されていたことにはちょっとショックを受けた。今度の新居も、私の部屋以外では全部あの白々しい無遠慮な光にさらされることになる。うーん。
 何にお金をかけるか、何に時間をかけるか、何を大事にするかという、生活する上での根本的な価値観が、私と両親の間で微妙にずれていることに、気付く機会が最近増えた。引っ越しが決まったことがその一つの原因だろうが、そうでなくとも年齢的にそういう時期なのかもしれない。
 これは両親の老後の家。お金を出すのは両親だし、これは彼らなりの価値観なんだから、とできるだけ割り切るようにはしているのだが......。


1.31(Mon)

 「TV、雑誌でおなじみ」「xxで紹介されました!」をチラシや、店の看板(!)にまで入れているお店もある。
 テレビや雑誌が持っている力は、確かに大きいかもしれないけれど、そんなにへつらわなくたっていいんじゃないかと思う。気に入っていたお店でも、そういう文句を見た途端に、門をくぐる気がしなくなってしまう。そんなことでしか自分の店をアピールできないのかあ、とがっかりしてしまう。
 いつ会っても「あの番組が...」とか「あの雑誌のだれだれが...」という話しかしない人だとわかると、すっかりひいてしまうのと同じ。借り物の情報や評価じゃなくて、その人が持っている情報や価値観を知りたいから私たちは話をするのにね。


1.20(Thu)

 遅くなりましたが、今年の抱負。

  1. 先入観なしに、他人を正当に評価できるようになること。
  2. 言いたいことはちゃんと口に出して言うこと。
  3. いくらなんでもいい加減CD-ROMをつくること。

...イヤだな。割とこのページ、知り合いが見てるんだよな。



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