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[ Writings Index ]

Write it down.
page 10
2004.1.-



10.12(Tue.)

ふと気付くと、最近少しずつレースの付いた服が増えてきている。

小学生の頃、お店で見る「女児」用の服には大抵、ワンピースにも、ブラウスの襟にも、下着にも、靴下にも、必ず「レース」と「リボン」(下手をすると花のカタチのボタンまで)付いていた。とはいえ、服を買ってもらうお店にはそういうものしかなかったし、クラスメイトの子たちも、大抵がそういう服を着ていたので、多分に漏れず、私もそういったものを身に着けていたのだが、「これはガラじゃないな〜」と、何となく居心地の悪い思いをしていた。
その頃のカンはたぶん間違っていない。フリフリ真っ白のレースが付いた膝下までの靴下を履いている、小学生の頃の自分の写真をいま、どう贔屓目に見ても、うーん・・・と苦笑するばかりである。

私は体型や顔が男性寄りなので、どちらかというと、飾りの少ない、地味な色合いの方がしっくりくる。自分で着るものを選ぶようになってから十数年、こどもの頃の居心地の悪さも手伝い、花柄とか、リボンとか、レースといったものは避けて通ってきた。

でも、レースのような飾りも、使う場所や見せる量を調節すれば、あまり主張させすぎずに身につけることができるのかもしれないと、最近ちょっと「レース」に対する考えが変わってきている。これでもか!とレースが飾り付けられた「女児」の服は、私にとっては「女の子」色を主張しすぎ、だったのだと思う。(とはいえ、あれがとても似合う子もあまりいなかったような・・・)

手持ちの数少ないレース付きの服を眺めながら、いろいろ試してみよう、と考えている。



9.23(Thu.)

 朝5時。
 いつもなら、眠りの薄闇にとっぷりとくるまれている時間に、家人を車で目的地まで送って行く。
 早朝(私にとっては)に車に乗りこむとき、それが今日みたいにほんのちょっとした用事でも、なにか特別なことが始まるような気がして、楽しく落ち着かない気持ちになる。遠出をするから高速道路が混まないうちにでかける、というのが、早起きして車に乗るときの大抵の理由なので、さて、これから楽しいことが待っているぞ、という期待が、連鎖反応的に引き出されてくるからだと思う。
 地下に仕舞われている車が姿を現すのを待っている間、新鮮で静かな空気を吸ってぼんやりしていると、頭の中をいろいろなものが通り過ぎる。スキーに出かける冬の4時、空気が肌に刺さる痛さや、叔母の家からデイキャンプに出かける夏の6時、車寄せに立つといつも感じた芝生の濃い匂い。
 体はだるいものの、気分が良い上に一日の時間を有意義に使えるような気がするのだから、毎日起きる時間を少し早めにしたいな、とも思う。でも一方で、早起きは、いつもとは違う特別な楽しみがある日のためのもの、としておいた方が良いような気もするし、と、あれこれと考えながら、遠回りをしつつ帰路につく。
 自分が早起きしたいときに、早起きができるかどうか、という一番大事な問題は、このさい保留。また今度考えることにする。



8.6(Fri.)

 59回目のヒロシマの日。真っ青に晴れ、ぎらぎらと太陽が照りつける中、長いこと手を合わせ目を閉じているおばあちゃん、ずっと行方がわからなかった妹の、遺品がつい先日みつかり、被爆して亡くなっていたと知ってぼろぼろと涙を流すおじいちゃん。苦しそうに妹の名前を呼んでいる。
 「ヒロシマに原爆が落とされた日」と一言で言っても、その日を生きていた人それぞれに、8月6日は違った意味を持っている。少しずつブラウン管に写されるそんな人たちの様子を見ていると、そのつらい記憶は、今でも彼らのすぐそばにあることが分かる。これだけの時間が経っても、きっと全然色あせていない記憶。



8.2(Fri.)

 2月末から、家で筋肉トレーニングをしている。ただし、雑誌に載っていた、家で出来る範囲の、あまりハードでないやつ。
 3日にいっぺん、30分で良い、という、甘ーいプログラムだが、やってみてびっくり。いままで見たこともなかった「筋肉」が、少しずつついてきたのである。
 体のいろいろなところの形が変わってきたのは、はじめて一月経った頃。いままで全くそういったトレーニングをしたことがなかったからかもしれないけれど、そんなにすぐに目に見える形で効果が現れるとは思っていなかったのでびっくり。「それならもう少し続ければ更に・・」という期待が生まれ、飽きっぽい私が、なんと半年も続けている。はじめほどの変化は無いけれど、着実に効果はあがっているように思う。
 特に変化が見られるのが腕。筋肉がつくと、2Dだった二の腕が、3Dに、立体的になるんです。知らなかった。今までふくらんだことのない方向にふわっと山ができている。今まで一体、どういう体をしていたんだろう、と、3Dな自分の腕を観る度にぞっとしてしまう。
 気温が高い今年の夏は、ノースリーブのシャツを着ている人も多く、ついつい、すれ違う人の腕を盗み見てしまうのだが、たまにすごく綺麗な腕の人を見ることができる。がんばろう、と、張り切ってしまう瞬間である。



7.16(Fri.)

 こどものころから、人並み以上に汗っかきで、被っていた麦わら帽子は一夏過ぎる頃にはいつもしわしわになっていた。汗の塩が残ってしまい、それをしょっちゅう母が洗ってくれていたから。
 麦わら帽子は被らなくなったものの、大人になった今も、汗っかきは相変わらず。先月からのべっとりした暑さの中を歩いていると、ものの5分で着ているものは汗でびしょびしょになってしまう。とはいえ、ここ数年は、「夏に外を歩いて汗をかく」ことをあまり不快と思わなくなっている。あるべき姿だし、正当な感じがするから。冬に、地下鉄の中や、ビルの中でかく汗は、なんだか中途半端だし、理不尽な気がする。
 とはいえ、汗をかきかき歩いているときは、気持ちのいいものではない。でも、汗だくになった体を拭いてさっぱりしたときのことや、汚れたハンカチや服を洗うことを考えるとわくわくして、悪くないな、と思う。すっかりキレイになった洋服を干しながら、洗濯を自分でしていなかったときには、こういう楽しみがあるとは想像もできなかったな、と、昔を思い出しているこの頃である。



6.18(Fri.)

 二週間ほどまえに、家で使っているタワー型のMacintoshが壊れた。突然。電源が入らなくなってしまったのだ。
 初めの日は、ちょっと機嫌が悪いんだろう、程度にしか思わず、iBook(ノートパソコン)を使って用を済ませた。が。3日経って、そろそろ良いかな、と電源を入れてみようとすると・・・やっぱり入らない。電源ボタンを押すと、一瞬ファンが回る音がするのだが、すぐに静かになってしまう。バックアップを撮っていない写真や画像データが頭をよぎり、じわっと額から汗が出てくる。このときやっと事態の深刻さに気がついたのだった。
 いろいろ調べ、素人でも出来る範囲のことはしてみたが改善せず、結局Macintosh専門の修理店に持って行くことにする。小雨の中、毛布でくるんだG4を抱えてお店に持っていき、試しに電源を入れてみると・・・ケーブルの刺し口から火花が散って、誇りがこげる匂い。お店の人はびっくりしてケーブルを引き抜き、「た、たぶん、電源供給をするボードの問題だと思います」と、汗拭き拭きと言った体で説明。火花を見たせいか私は不思議と気が大きくなってしまい、もうデータはあきらめて、他のMacintoshを買うか、と思い始めていた。
 とりあえずそのMacintoshをその日は預け、その後お店で詳しく見てもらった。そして数日後、その結果を知らせる電話がかかってくる。やはりボードの問題で、それを取り寄せて刺し直せば大丈夫、とのこと。見積もりを聞き、作業をたのみ電話を切ったとき、もう買い換えてもいいや、と思っていたはずの自分から、ずいぶん深い安堵のため息が出て驚いた。
 無事修理をしてもらい、戻ってきたMacintoshでいまはこうして文章を書いている。もとの位置にセットし、電源がついたときに、ちゃんとバックアップをとっておこう、という決心をしたはずなのだが、その作業は全く進んでいない。でも、故障する前よりも、修理から戻ってきて何もなかったかのように動いている今の方が、このMacintoshへの愛着が強くなった気がする。失いそうになってみて、大切さを再認識した、ってところでしょうか。
 使い始めてまだ4年。少しずつケアして、あと数年は使い続けようと思っている。



5.12(Wed.)

 歩いてみよう、第二弾。
 今月のはじめ、仕事場から家まで歩いてみようと、再び思い立った。世はゴールデンウィークでお休みモード。やるべきことはたくさんあったので、仕事場に出かけたものの、夕方になってまだまだ明るい空を見ていたら、いつもはできないことをやってみたい衝動にかられ、歩いて帰ろう、ということになったのだ。
 16時頃、仕事場を出て、前回とは少しだけ違う道を通り、ひたすら歩く。面白いのは、繁華街にはいつもの何倍もの人であふれかえっているのに、そこから10分も歩くと、途端に人がいなくなってしまうこと。オフィス街は驚くほど静かで、不気味ですらある。繁華街のにぎわいよりも、オフィス街の静けさの方が、いまが大型連休のさなかだということを強く感じさせるというのも妙なものだ。
 30分も歩いていると、例えばのどが渇いたからどこかで休みたいな、などと思っても、立ち止まるきっかけがつかみにくくなってしまう。決して快適ではないのだけれど、倒れそうなほど疲れてもいない状態のまま、足が止まらない。目ではファーストフード屋やコーヒーショップをかなり遠くから物色しているのに、いざその店の前まで来ると、さっさと通り過ぎてしまう。まだ、休まなくても行けるだろう、と思う。あるいは、一度立ち止まると、再び歩き続けよう、という気持ちにならないかもしれない、という心配からなのかもしれない。マラソンをしていて、ある程度の時間走りつづけていると、どこまででも走れるような気がする感じとよく似ている。
 そのまま、歩き続けて2時間半。家まではたどり着かなかったけれど、ほぼ中間地点まで来たところで、道に迷ったこともあり、電車に乗ってその日は家に帰った。歩いている間、結局一度も足を止めなかった。
 次の日、途中で切り上げてしまったことが気持ち悪くて、前日乗った電車の駅まで敢えて出かけていき、そこから家まで再び歩くことにした。今度は地図を持ち、ひたすら歩く、歩く。都心の道を一歩はいると商店街があったり、一駅隣まで歩くと周りにいる人たちの服装が突然違ってしまったり。この日は一度だけ、オフィスタワー下の公園で休憩をした。よく車で通りかかる、自宅近くの橋を渡るとき、下を覗くと大きな川が流れていて(真っ黒な川面)、テトラポットの上にはゴミが散乱していた。
 2日かけて、歩いた時間は4時間半。うん、また挑戦しましょう。

4.25(Sun)

 「ミュージックフェア21」という番組がある。最近は見られる時間にテレビの前にいないので、観ることがなかったのだが、その番組の中で「劇団四季ミュージカル特集」という企画をやる、ということを知り、はりきってビデオ録画をして、当日の夜に観た。
 30分の番組で、2回に分けての放送。その一回目だった。劇団四季で最近扱っている演目に関しては、『アイーダ』以外はほぼ観ていて、だいたいどんな作品かはわかる。それだけに、一曲一曲を聞くと、「あれも聞きたい」「これだけじゃ物足りない〜!」「あの良さが出ていない・・・」などと思うのだけれど、そういう企画じゃないんだし、とその度に思い直す。逆に、テレビで実際の舞台の良さは伝わらない、と割り切って、スタッフの人たちはダイジェスト的な構成にしたのだろう。
 一日たって、今日もう一度観直す。ちょっと落ち着いて見られたので、昨日とはちょっと違うことも感じられた。
 まずは、どんなキャラクターも、やっぱりその作品の中にいるのが一番しっくりくるということ。全然違う舞台の人たちがずらっと並んでいる絵、というのも、ある意味おもしろくて好きなんですが(笑)。
 テレビでは、舞台を観たときの迫力とか、ワクワク感が伝わりにくいということ。カメラの枠で切り取って映しとられたものと、テレビ画面を観る人の間に、多くの人の目や手が入ることで、ありきたりな素材をおもしろく見せているテレビ番組もたくさんある。でも舞台は、役者さんと同じ場所にいて空気を共有する、自分で観る場所を選べる、ということが、私は大事だと考えているので、そういうことも含めて作り上げられている世界をテレビというメディアで観ると、どうしても遠い感じがしていまうのだ。
 そして、よくあれだけの作品をあの時間内に入れたなあ、ということ。話は聞いていても、どうもチャンスがなくて四季の舞台は観に行ったことがない、という人が(実際そういった話を私もよく聞く)、どれに行ってみようか、と選ぶことはできたんじゃないだろうか。
 来週の土曜日の放送も楽しみだ。

#・・・保坂知寿さん、綺麗だったなぁ。こそっ。

3.27(Sat)

 最近習慣にしていることがある。夜どんなに遅く帰ってきても、朝ではなく、夜にお風呂に入ることと、その後のストレッチ。めずらしく、1月以上続いている。
 深夜、誰もいないリビングでストレッチをするときには、さみしいのでテレビをつける。この時間帯、衛星放送では海外の長編ドキュメンタリーの再放送をしていることが多い。横目で見ていても話がわかるようなものが大半で、結構おもしろいものを観ることが出来て、得した気分になる。静かな部屋で、体をゆるめながら、おもしろい番組を観ている時間は、ちょっとした「至福のとき」である。今日はチェリストのヨー・ヨー・マのインタビュー番組。彼の穏やかな人柄がきちんと伝わってきて、観ていてつい微笑んでしまう番組だった。
 ただ「長編」が多いため、寝る時間を気にして、結局いつも最後まで観ることができない(今日もそう)。でも、惜しみながらテレビのスウィッチを切ることも、もしかしたら「至福のとき」を余計盛り上げているのかもしれない。

2.13(Fri)

 先日、仕事場からの帰り道を、電車に乗らずすこし歩いてみようと思い立った。交通手段は地下鉄なので、いつも通り過ぎている町町がどういう場所なのか、私はほとんど知らない。電車に乗っている間に、どのくらいの距離を移動しているのかもピンとこない。幸い時間には余裕があったし、体力もあったし、気候も良かったので、行けるところまで行ってみよう、と歩いてみることにしたのだった。
 以前、車で通ったことがあったので、その時見たビルや景色で道を確認して進む。5分、10分と歩くにつれ、自分がちゃんとその場所を移動しているということや、この町は本当にここに存在しているということを、強く感じるようになってくる。ただ地図に書かれている町の名前ではなく。通り過ぎる人の表情はこんな感じなんだ、とか、この辺から突然人通りがなくなるんだ、とか、あ、雑誌では見たことのあるお店はこのビルに入っているのか、とか、でも昔からの本屋さんや八百屋さんもまだまだあるんだな、とか。電車でその町の下をいつの間にか通り過ぎていたり、車の窓ごしに町の景色を見ているときは、その町が壁一枚隔てたあちら側の、別の世界にあるもののように、遠く感じていた。
 いつも仕事場から家に戻るときは、最寄りの駅の入り口で地下にもぐって電車に乗り、黒いトンネルの中を無意識のうちに通り過ぎ、電車を降りて地上に出て、見慣れた景色の中を当たり前のようにまた歩き出す。何度も何度も行き来しているのに、トンネルの中を通っている間の外の変化を私は全然知らないのだ。こんなふうに、はじまりと終わりだけが見えて、その途中を知らなくても、何を思うことなく生きてゆけることがたくさんあるのだろう。もちろん、途中をすっ飛ばすからこそ、すっ飛ばしていなかったときには行けなかったところへ行ける、ということもあるので、どちらが良いとか悪いとかいう話ではないのだけれど、自分がとても限定された世界で生きていることは確かだ。
 そんなことを考えながら大きな通りをもくもくと歩いているうちに、気が付くと人通りはほとんどなくなっていて、突然心細くなった。お腹もすいたし、と思い始めたころ、暗くなった景色にぼやっと浮かび上がる看板が見えてきた。看板には、見慣れた駅の名前と地下鉄のマーク。ほっとしてかけこむ。普段なら何とも思わない、駅構内の蛍光灯の白々した灯や、携帯電話をいじりながら電車を待っている人たちに、妙になつかしさを憶え不思議な気持ちになった。たった2駅歩いただけだったが、次に地下でこの駅名を聞くときには、まえとは違うふうに聞こえるのだろう、と思いながら、読みかけの本を開いた。乗り込んだ電車は、いつものトンネルへ突き進んでゆく。
 今度は張り切って、今回より長く歩いてみよう、と懲りずに思う。空腹ではない、もう少し明るい時間帯に。

2.2(Mon)

 本屋に行って、いつもどおり、インテリアを扱っている雑誌のコーナーへ向かう。と・・・散乱した雑誌の数々!あまりにも散らかっていたので、その様子をしげしげと眺めてしまった。
 目の高さにある、雑誌の表紙をこちらに向けて並べられた棚には、ナナメ45度に傾いたもの、無理につっこんだせいで、他の雑誌のページの間に挟まり、頭が飛び出ているもの。背表紙だけが見える、バックナンバーを並べた棚では、雑誌が一斉に傾き、首を傾げないとタイトルが読めない状態。見下ろせば、膝の高さの台に置かれた最新号たちの上に、別のコーナーにあるはずのファッション雑誌。
 となりの料理雑誌のコーナーも、後ろの育児雑誌のコーナーも、男性情報誌のコーナーも、とりたてて混乱している様子は見あたらない。誰か、特定の人がインテリア雑誌のコーナーで雑誌をあさっていった後、なのだろうか。それにしても、なにも「収納上手」とか、「住みやすさ」とかいう文字が踊る雑誌を、こんなにちらかさなくても、と苦笑。
 読んだものはもとの棚へ、使ったものはもとの場所へ。かく言う私も、目下努力しているところです。。。がんばろう。

1.5(Mon)

 さてさて、27度目の誕生日。無事迎えることができました。
 ここ一年、いろいろな人に助けられてきたなあ、と思い返しつつ、今年の抱負。

1. いま大切だと思うものをきちんと大切にすること。
2. 自分にとってつらい状況でも、必要な現実から目を逸らさないこと。
3. 体を大事にすること(別に病気をしたわけではないけれど)。


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