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[ Writings Index ]

ESSAY
Chapter 1
1996.5.26-1996.9.19

とある雨の日
道が広いと思ったら
親にはちょっと言えない話
七年ぶりの重病人
映画の話


とある雨の日


 朝、めずらしく目覚まし時計に頼らず目が覚めた、と少し嬉しくなって時間をみたら、目指していた時間はとっくに過ぎている。どうやら無意識のうちに目覚ましを止めてしまったらしいという推測は、枕元にそれがあることを見れば容易に出来た。いちいちハイベットからよいしょ、と降りて、机までこれを取りに行く間になぜ、目が覚めないのか不思議。ベッドから机までの道中に今以上障害物を置くべきなのでしょうか。
 いつもの習慣でカーテンを開けると、雨。この時期の雨は、針みたいにつめたい冬の雨に比べれば全然苦にならない。そう思いながら洋服を選ぶ手を伸ばしてから、あっと声をあげる。前回の雨のときに、傘を学校に置いてきてしまったことを思い出したのだ。
 止まないかな、とのろのろと支度をしてから外をのぞくと、お、みんな傘をさしていないではないか!結局、手にしていた父親の傘は、玄関に置いてきぼりにして出かけてしまった。そう、これがいけなかった。
 最寄りの地下鉄の駅からの電車が地上に出るのは、私が地下にもぐってから約30分後。少しすいた電車で、とてもリラックスした姿勢でハードカバーの本をひろげていた私は、その30分後、中野についたとたんにさーっと青くなった。雨が降っている。しかもしとしとというかわいらしい雨ではなく、天井を突き抜けてくるような勢いで電車に体当たりしている大粒の雨だった。
 ホームを移り電車を待っている間、さりげなく周りの人の所有物を確かめる。どの手にも傘が握られている。そういえば朝、ラジオで雨がどうたら、と言ってたなーと思い出すが、今更もう遅い。せめて吉祥寺につくまでに、もう少しおとなしい雨になってくれることを祈り、じっと窓の外をにらみ続けたが、どうやら無駄だったらしく、駅の出入口では、びちびちと地面を打ちつける雨粒が跳ね返っていた。
 不本意ながら、130円を払って一駅分、再び電車に乗る。この間たったの一分。
 電車を降りて、さて、ここからが大変。
 雨足は全く弱まる気配なし。運悪く、同じ電車に乗り合わせた知り合いもいない。改札を出てから迷うことなく、私は雨の中に飛び出した。

 前にも一度、バケツをひっくり返したような雨を、頭からかぶったことがある。確か中学生の時。近所のコンビニに、妹と遠くから遊びにきていたいとこと、おつかいに出かけた時だった。家からコンビニまでは五分もかからないのだが、その道中のちょうど真ん中あたりで、落ちてきた滴が一瞬にして大雨になり、10秒もしないうちに私たちはずぶぬれになった。そしてコンビニについて買い物をし、帰る頃にはもうすっかり晴れていた。七月のなかばの夕立だった。あんなに気性の激しい雨に出会ったのははじめてで、私たちはすごく驚いたのだが、不思議と不快感はなかった。ビーチサンダルをきゅっきゅっといわせながら、袋をさげて歩いた帰り道は、むしろ気持ちよかったのを憶えている。
 私がためらいなく雨の中に飛び出したのは、そのときの記憶がわずかに顔をのぞかせていたからかもしれなかった。だが感想はその記憶とは正反対。夏のさっぱりとした雨とは違い、梅雨に入るか入らないかというこの時期の雨は、生温く肌にからみつく。
 気に入っているブラウスが張り付いて、どんどん体温を奪っていく。久しぶりにおろした髪の毛もとにかくうっとおしくて、その場にはさみがあったら切ってしまっていたと思う。前を歩く傘をさした人を追い越すたびに、その傘を奪い取って逃げ去る自分の映像が脳裏をよぎっていた。
 なんとか屋根のある目的地にたどり着き、しばらく服を乾かしてから、傘を置き忘れていた棟へ歩いていった。そのころにはもう、大分雨は止んでいて、人の傘を奪い取る自分の幻影は頭から消えていた。そしてついにやっと、自分の傘を手にすることができたのだ。多分この時ほど、自分の傘というものに愛着を感じたことはなかったと思う。
 

 午後3時ごろに授業が終わり、外に出たときにはもう、すっかり晴れていた。その棟を出て、道を歩きながらはっと気がつくと、どうやら先ほどまであんなに愛しく思っていたはずの傘を、また置いてきてしまったらしい。やれやれ。
 近いうちに、また同じような経験をしそうな気がして、それを考えると私はすごおく憂鬱な気分になる。そんなことになる前に、梅雨があけてくれることを祈るばかりだ。

1996.5.26


道が広いと思ったら


 この間、駅までの道を歩いているとき、ちょっとした発見をした。
 私はここ東陽町に、五歳の時に引っ越してきたので、あれからもう十四年この町にいる計算になる。はじめの五年ぐらいはあまり記憶がないにしても、ここ十五年の間の変貌ぶりというのは、本当にすごい。数カ所にマンションと、自転車で十分のスーパー以外何もなかったのに、図書館ができ、スポーツクラブができ、そしてこの二三年の間に、様々な会社がこの町に移動してきた。
 東陽町の駅へと向かうときに、必ず通る大きな通りがある。この道の風景もすっかり変わった。砂砂利からアスファルトになり、木が植わったと思えばそれを掘り返し、アスファルトで埋め、また掘り返して...。こんなに目立つ通りなのに、みっともない姿にしちゃって、まったくもう!と不快に感じていたのだが、その道がやっと整備されて、とても広くなった。なるほどこのためにあっちこっち掘り返していた訳ね、と思いつつも、あれ、でもこの道こんなに広かったっけ、と少し不思議だった。
 ある日、その道を駅へと向かう途中、すれ違った会社員のおじさんたちの会話。
「いいですねえ。この道は広くて。」
「そうだなあ。あ、電柱がないんだ。」
 お、そう言われてみると。
 煉瓦でおおわれた歩道の脇には、数メートルごとに木が植えてあるが、確かに電柱がない。今までよりも広く見えた理由はこれだったらしい。視界にいやがおうでも入り込んでくる網の目のような電線がないだけで、こんなにも感じが変わるものか、と感心してしまった。
 はじめてアメリカに行ったときに、なんて空が近いんだろうと驚いたことを思い出す。親戚がすんでいるその田舎町は平屋建てが多かったので、それもあったのだろうが、電柱がなかったことも、視界が広い!と感じさせた原因だったのだ。
 そういえばつくばも電線が地下をはしっているという話を聞いたことがある。息苦しい東京の町も、電線が地上から一掃されれば多少は広くなるのかしらと、あまり実現性のないことを考えてしまった。きっとまだ当分は、東京のごみごみとした様子を見続けて行くことになるだろうなあ。

1996.5.29


親にはちょっと言えない話


 先日とある席で、男の子と女の子のお子さんを持つM氏と話をする機会があった。M氏はいろいろと問題発言はするものの、ふとしたはずみにこぼれる言葉から、家族を大切にしている事が良く分かる、30半ばの男性である。そんな彼を含む五人で食事をし、その後コーヒーでもと寄った喫茶店で、まあよくある色恋の話題になった。
 隣席の女の子に相手がいるのを知っているものだから、M氏は何気なく彼女に話をふる。あ、何気なくでもなかったかな。そこから「同棲」について、に話が移っていった。どうせなら、同棲しちゃったら、とM氏は彼女にケーキをつついて言った。
 実際ね、俺も結婚してから相手と生活のペースがあうようになるまで、半年くらいかかったよ。同棲して多少慣れておいたほうがいいのかもしれない。
 ヨーロッパの何処だかの国のある地方では、同棲期間がある程度ないと、結婚が世間に認められないそうだ。二十年も違う環境、違うペースで生活してきた二人が一緒に暮らすのだから、案外こういう考え方が正当なのかもしれない。
 同棲正当説が有意になってきて、彼女はなんと答えようかと困っていたが、一言、「じゃあ娘さんがお年頃になったら同棲を勧めます?」そう言った。M 氏は考える間もなくきっぱりと、いや、と首を振った。息子だったら別にどうってことないんだろうけど、娘はねえ。
 「お父さん」の存在がある限り、同棲正当説が世界に根付くことは難しそうだ。女の子はいろいろ大変ですね。

1996.7.8


七年ぶりの重病人


 やらなくてはと思いつつも、一ヶ月延ばしに延ばしていた仕事に無理して戦いを挑んだのがいけなかった。日程が押しているという状況で、二日間で3時間しか寝ずにひたすら机に向かうという、受験の時期にも実現できなかった事をやり、そのまま二泊三日のゼミ合宿に突入した結果、家に戻った次の朝寝込んでしまったのだ。
 病気で寝込むなんて、小学校六年の冬以来だ。軽い風邪をひいたりはしたものの、ここ7年ほど寝込むほどひどい事態に陥ることはなかった。まあそんな調子だったから、このぐらい無理はしても平気だろうと言う気持ちがあった。朝方吐き気をおぼえて目が覚めてしまっても、トイレにかけ込むまで大したことないだろうとそう信じていた。
 ところが一度症状を自分の目で確認してしまうと、その信念はぐらりとゆれて沈みはじめ、あっと言う間にその姿を隠してしまった。どこからわいてきたのか分からない、自分は重病人だという確信が頭の中を占拠するまでに大して時間はかからず、朝の連続テレビ小説が始まる頃には、私はもう寝込んでうんうんうなっていた。.
 なんともつらい一日だった。胃腸炎をともなった風邪ということだったが、これが名前から受ける印象をはるかに越えてしんどい。胃が正常に動かないので、とにかくお腹になにかをいれて消化することができない。喉が乾いてなにかを飲みたくなるのだが、飲むとすぐに逆流してしまう。薬もダメ。そんな訳で何も胃には入れられないのに、しっかり二時間おきに、吐き気の波がやってくる。ゆっくり寝ていることもできなかった。
 夕方になると熱も九度近くまであがり、さすがにしんどいのでトイレからは少し遠いが自分の部屋に移動する。そのころには家族が帰宅していて、ああこう言うときの家族というのはなんて有り難いんだろう、じーん、と涙ぐんでしまうほど気を使ってくれた。
 頼まれていた取材の申し込みの返事や、次の週からの映画の撮影のスケジュール(この話はまた後で)などの連絡を、息も絶え絶えでなんとかすます。礼儀とは分かっていながらも、こういう時の優しい言葉は、なんと嬉しいことだろうと、ぼうっとした頭で感謝する。
 夜にはゆっくりならば飲み物ぐらいは摂取できるようになっていた。一杯しか飲まなかったが、ストローでそろそろ飲んだ牛乳が本当においしかった。(毎日1リットル近く飲んでる私にとっては牛乳はまさに命の源なのである。)その日は二杯の麦茶と一杯の牛乳だけを胃に入れて眠った。
 翌日は大分気分がよく、熱も下がっていた。病院に行って薬をもらい、野菜を煮込んだ上澄み液に薄く味を付けて飲んだりしているうちにだんだん食欲も顔を出し始め、お粥を作ったりお饅頭をつまんだりした。何となくめまいはしたが、まああとは時間の問題だろうと安心してシャワーを浴びた。
 ふと鏡をみて、母親がやせたといっていた事を思い出す。そういえば目のあたりがくぼんでる気もするなあ、と体重計を引っぱり出して乗ってみると、信じられない位置で針が止まる。4キロも減っていたのだ。改めて鏡をみると、確かに頬もこけている気がする。体重が減ってうれしいとかそういう馬鹿な考えは通り過ぎて、こりゃちょっとまずいなあ、と正直思った。
 体重計にのったのが原因だったのか分からないが、その日の晩は久しぶりに食べ物を口にした。まだおいしいとは思わなかったが、胃に食べ物がいれられると言うことで大分安心した。
 その後2、3日静養してからロケが始まり、いつの間にやら一週間。知らないうちに、減った体重もしっかりもとに戻った。あんなにつらい思いをしたのに、カレンダーを見ないとまだそれから半月も経っていない事を思い出さない私に対する誰かの罰なのだろうか、なんだかまた風邪をひいてしまった気がする。鼻水がとまらない....
 体は大事にしなくてはと、今月は身を持って学ぶ月になりそうだ。とにかく、今日はもう寝よう。

1996.9.17



映画の話


 映画作りに参加している。私が去年やった舞台を見に来てくれた友人が、演技が多少出来てMacを使ってロゴを作ったりしている、と私を監督に紹介した。 MOMONGA というその集まりは、友人の卒業した高校で映画を作っていたクラブのOBらが中心になって活動を始めたらしい。
 実は話は今年の3月から聞いていた。ロケは5月中にすますという話だったのだが、あれこれあってそのうち夏休み前の試験期間に突入してしまい、大学生のメンバーの都合がうまくあわなくて、結局ロケが始まったのは今月上旬となった。
 大半のシーンはそれから二週間で撮り終わって、残すところあと数シーン、日にちにして二三日である。先週はなんとも密度の濃いロケだったので、撮影が始まってはじめて顔を合わせた人たちとも、大分仲良くなれた。今は驚くほど異なった世界を生きている(ひとりとして同じ大学にいっている人がいない、と思う。学年もまちまち。)二十人近くの人たちが、高校の友達というつながりだけで、自分のスケジュールをやりくりしてこのプロジェクトに参加している。中心になっている監督の人望には勿論敬意を示すのだが同時に、この団結力の強さは彼らが三年間を過ごした高校の雰囲気が生み出したものだろうか、ととてもうらやましく感じてしまった。

 私が短期間での観察から彼らの印象を一言で言うと、さばさばしている、である。メンバーは男の割合の方が圧倒的に多いと言えば、そりゃ当然そうなるだろう、と言われるだろうが、私は何人かの女もちゃんと含めた上であえてそういっているのである。都合の悪い事や出来ないことは本人がきちんと言うし(私が見てきた中では)、それを周りが無理にやらせようとする事はとても少ない。でも一人一人が出来る限り協力しようとしているのがよく分かる。お金もないし、やらなくてはいけないことも沢山抱えていて時間もないけれど、それでも参加する以上、全力で前進している人たちが集まっている。

 中高の六年間を、私は女子校で過ごした。高校生になってから、クラブ活動を通して集団がもつパワーというものを知り、驚いた。私が六年を過ごした学校は、女子校にしてはアクティブで団結力も強く、さばさばした人が多かった(私を知っている人なら、想像がつくだろうが)。だがそのパワーを、MOMONGAのそれと比べてみると差は歴然で、それで充分満足していたあの頃の私はなんて狭い世界に生きていたんだろうと思わざるを得なくなる。
 だがだからといって、高校生の頃の自分を卑下しているのではない。私は狭い井戸の中しか知らなかった時代の私なりの驚きや感動を大事にしている一方、それをもっと上回るパワーを持つこの集団に出会えたことは、すごく幸運だったなあと素直に喜んでいるのである。

 撮影では、某公園の池にスーツを着て浮かんだ人もいれば、ガレージを改造したアジトで包帯をぐるぐるに巻き付けられて二時間耐えた人もいた。朝四時に黒ずくめで走り回った日もあったし(残念ながら私はその場にいなかったが)、カメラを構えると必ず映ろうとする子どもに泣かされたりもした。もてあました撮影外の時間、平日の朝のJR飯田橋駅の慌ただしさをぼーっと見たり、外堀沿いの緑道公園をとおる保育園児の群れに目を細めたり、殺風景な若葉台の駅でおそるおそる自販機のアイスを食べたりして、少しずつ変わっていく季節を肌に感じながらいろんな人と話をした。そしてその時々、このプロジェクトに参加できてほんとによかったと思った。
 なんだかすっかり映画が完成してしまったかのような口ぶりだが、撮影の後にはアフレコや編集が待っている。まだまだ道は長そうだが、この努力が形になる日を私は今から心待ちにしている。
 しかしその前に、そういえば私、雨の中を走るシーンがまだ残っている...事を忘れていた。このシーンの撮影が、台風の日でなければまあ、文句は言わない。

*MOMONGAのホームページに行くと、映画のダイジェストなどの絵が見られます。

1996.9.19


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